<育てられる者>から<育てる者>へ

<育てられる者>から<育てる者>へ

2021年7月24日

「<育てられる者>から<育てる者>へ 関係発達の視点から」鯨岡峻  NHKブックス

今朝、模試へ行く息子が、「人間って変わらないんだなあって思うんだよ。」とぼやいていました。彼は、小さいときから心配性で、事あるごとに「大丈夫だよね、お母さん。」と聞く子でした。どこかへ出かけるとき、新しい事を始めるとき、いつも、そう聞いては「大丈夫よ」と言ってもらい、初めて踏み出すことが出来るような子でした。 「時々、意味も無く不安になって、そういう時は、気がつくと、周囲に愚痴ってるんだよね。それで、『まあ、大丈夫だよ、何とかなるよ』とか言われると、やっと安心して何か始められるんだ。それって、何も変わってないじゃないか!!」ですって。ははーん。私に「大丈夫だよね」とは聞かなくなったけど、それって、訴える対象が変わっただけなのね。結局、誰かには大丈夫かどうか確かめてるのね、今でも。まあでも、親に聞かなくなっただけでも、進歩というのじゃないかしら。 なんて話をしていて、この本の一説を思い出しました。

これまでの議論を振り返ってみれば、適度の依存にはおのずから自立へと向かわせる力が宿っており、逆に適度の自立の裏にはそれまでの依存が土台として生き残っていると言わねばなりません。(中略)
そうしてみると、愛の両義性の議論と同じように、依存のなかに肯定的な面と否定的な面があり、また自立のなかにも肯定的な面と否定的な面があることがわかります。そして依存は自立を展望し、自立は依存を土台にしています。ここに、依存と自立の関係は単に「依存から自立へ」と移行していくようなものではないと冒頭で述べた理由があります。依存と自立は、おそらく一人の人間のなかで常に背中合わせになっていて、ただ、年齢と共に、その現れ方が変化してくると見るべきではないでしょうか。

(「<育てられる者>から<育てる者>へ 関係発達の視点から」鯨岡峻 より引用)

この部分を読んでいて、私はずいぶん気持ちが楽になりました。というのも、私は、自分がオトナとして自立した心を持って生きて行きたいと願う一方で、家族に、夫や子どもたちに、精神的にとても依存した状態であることを常に自覚してしまうからです。あまりにべったりと寄りかかると、彼らにも重荷であるだろうし、また、私自身が、彼らと何らかの別離の場面に出会ったときに、どうしようもなくぐずぐずと崩れて行ってしまうだろう、と不安でもありました。もっとクールに距離をおいた関係姓を持つべきではないか・・でも、それて無理なんだよなー、という葛藤が、常にあったのですが。

ま、いいか、結局、人間なんて、自立してるように見せても、その背中じゃ依存してるわけよね、表裏一体なのよね、どんな人間も死ぬまで依存してるのよっ♪って、開き直ってしまいました。鯨岡先生、それって、ぜんぜん違ってます?

人間は育てられる者として生まれ、育てる者に成熟していく。そのためには、育てられる者との相互関係が重要だ、というのがこの本の主旨・・だと思います。育てられる者を一個の主体としてありのままに充分受け入れることによって、自信が育ち、外に向かい、他者と関わる力が備わっていく、ということでしょうか。

一個の主体として、ありのままを充分受け入れる。
これくらい、難しいことがあろうかと、子どもを二人育てて思う私です。こうあってほしい、こうあるべきだという規範、理想はたくさんあって、でも、目の前の子どもは、やりたい放題だったりしますからね。社会が求めるもの、社会で生きていくために必要なものも、山ほどありますからね。それでも、出来る限りにおいて、子どもを一個の主体として、尊重し、受け入れ、あなたはそのままで大事な存在であると伝え続けるのが、きっと親の大事な役目なんだと、思っては来ました。

そのおかげで、やりたいことばかり夢中に突っ走って、受験の大事な時期につまづきかけている息子とか、まるで世界の中心に自分がいて、何もかも思い通りにならないはずが無いと思い込んで、マイペースそのものと化している娘に頭を抱えていたりする今日この頃ではありますが。

2008/11/23