もう私のことはわからないのだけれど

もう私のことはわからないのだけれど

39 姫野カオルコ 日経BP社

「ケーキ嫌い」以来の姫野カオルコである。何冊か読んで、私は姫野カオルコをすっかり信頼した。この本も、好きだ。

13人の中年男女が匿名のニックネームで登場して、それぞれの近況を語る。彼らはみんな介護にかかわる人たちである。一人一人の年齢や出身地、これまでの略歴まで最後に添えられている。が、これらはみなフィクションである。小説だからね。ただ、一人一人の背景まできっちり設定されたうえで書かれていることがよくわかる。

これは、介護を語る物語なのだが、同時に親子を語ってもいる。介護はそれ自体が大変な作業だが、子が親を見る、という部分がさらにその困難さを増加させる元にもなっている。良き親であったとしても、あるいは迷惑な親であったとしても、関係性の希薄な親であったとしても、その人が親であること、それを子であるひとがみることが、問題をさらに複雑化させる。

いろいろな親、いろいろな介護者が登場するが、そのどれにも姫野カオルコの経験や思いが投影されている。戦地で残虐な経験をして、その後の人生にそれを引きずり、苦しんできた親もいれば、子に何の愛情も示さずに自分の仕事だけに熱中した親もいる。親が親だというだけで大切にしなければならないと思い込んでいる子もいれば、親が病気で苦しんでいるのだから自分が人生を楽しんではいけないと固く信じ込んでいる子もいる。自分には当たり前の幸せなど関係ないと思い込んでいる子もいる。そのどれもに、姫野カオルコの一部分が含まれ、彼女の経験が息づいていると感じる。そして、それがなんだかよくわかってしまうのだよ、私は。

私も今、遠隔地にいる母を月に一回、泊りがけで様子を見に通っている。まだ意識ははっきりしていて、自分で自分の面倒を見ながら独居しているが、毎回少しずつ衰えてきているのを感じる。今までの人生のおさらいをするような会話もあるし、実際に断捨離を勧めようとしているが、思うように進まないことに焦りと罪悪感を持っていることも伝わる。そして、なによりひどく淋しがっている。

母が寂しがっていても、私は月に一回様子を見に行くだけで、あとは私の人生を大事に楽しんでいる。それができていることに安心する。子ども時代の私なら、母が寂しがっているときに私が人生を楽しんではいけないときっと思っただろう。そうではなくなった自分に、私は安堵する。それでいいのだ、と思う。だけど、そう思えない人がいる、ということはものすごくよくわかってしまう。

親子関係は難しい。思った以上に親と子の関係は人間を規定するものだと長い年月を経てわかってくる。だからこそ、切り離さねばならない部分もあるし、切り離しきれない部分はあっさりと受け止めて、できる範囲でできることをするしかない。そのバランスはとても難しい。

「つらいわねえ」「大変よねえ」と行ってくれるだけでうれしい、という中年男がこの本にも登場する。介護が長いってことは、ゆっくり相手に挨拶できるってことだ、とも書いてある。そういう一つ一つの言葉が、なんだかしみてくる。

介護もまた、自分を知る、自分と向き合うひとつの機会ではあるな、と思う。それを大事にすることにしよう。