言語の本質

言語の本質

157 今井むつみ 秋田喜美 中公新書

副題は「言葉はどう生まれ、進化したか」である。何ひとつ言葉を知らない赤ん坊がいつの間にか周囲の言葉を理解し、片言をしゃべるようになり、複雑な文章を操り、抽象概念を思考するに至る。そこには何が起きているのか。どのように人は言語を習得するのか。そもそも言語はどのように誕生し、形成されてきたのか。

赤ん坊を育てていると、そんな疑問は確かに浮かぶ。浮かぶけれど、子育てってそれどころじゃないから、それに向き合ってる暇はあんまりない。知らんうちに我が子はうるさいくらいしゃべるようになっている。言葉が通じるようになると、そばに行って、手取り足取り何かをやってやらなくても「○○してね」と指示できるようになるから便利である。と言っても、思い通りに動いてくれることなんてめったにないが。

なんてことを思い出しながら、本書を読んだ。本書では、言語観察をオノマトペから始めている。フーフー、パタパタ、バンバン、カタカタ、といった例のあれである。日本語はオノマトペが豊富だ。が、外国語にもオノマトペはある。全く知らない言語のオノマトペから、意味を類推できるか?という問題が本書中盤に登場する。

インドのテルグ語の「チャトラスラム」と「グンドランガ」、丸いことを表すのはどっち?
デンマーク語の「テット」と「ラント」、近いことを表すのはどっち?
ベトナム語の「メム」と「クン」、柔らかいことを表すのはどっち?
スーダンのカッチャ語の「イティッリ」と「アダグボ」、多いことを表すのはどっち?

などなど10問が連なる。たいていの人が七割は正解するという。たしかにそうだった。
(上記質問の回答は「グンドランガ」が丸い、「テット」が近い、「メム」が柔らかい、「アダグボ」が多い。)

現在ではオノマトペとみなされない普通の言葉の中にも、元はオノマトペだったものは多くあるという。例えば、「吹く」はフーッという音が含まれているし、「吸う」はスーッという音が含まれているように。

オノマトペに注目する理由の一つは、記号接地という視点がある。私たちは言葉の指す対象を知っている。単に定義ができるというだけではなく、例えば「メロン」と言えば、メロン全体の色や模様、匂い、果肉の感触、鯵、舌触りなど様々な特徴を思い出せる。それは、実際に食べたことがあるからである。だが、食べたことのない果物について名前を教えられ、写真を見せられたとして。外見がわかり、名前がわかり、「甘酸っぱくておいしい」と記憶できたとして、その果物を知ったことになるのか。イチゴが甘酸っぱくておいしい、という記憶を持っていたら、その知らない果物もいちごと同じ味と考えるかもしれない。この問題はもともとは人工知能(AI)の問題として考えられたものであった。

人は言葉を覚えるために身体経験が必要か、言語はどこまで身体と繋がっているのか。そういう疑問と、オノマトペという実感に基づいた言葉の研究がつながっていくのである。

とても長く複雑な研究考察がなされている本ではあるが、わかりやすく、興味深く、面白い。そして、読むほどに、想像は言語を超え、思考すること、理解することにまで広がっていく。

小学校五年生に、1/2と1/3、どちらが大きいか、と問うたところ、半分が誤答したという話もあった。中学生にAとBの不等式はどちらが正しいかと尋ねて不正解のほうが多かった。

A   99/100 < 100 < 101/100
B  99/100 < 101/100 < 100

(正解はA)

つまり、分数の概念に記号接地しないまま、数学を学んでいるものが数多くいるということだ。数字を技術的に扱って計算したり回答を出したりはある程度できるが、実はその概念を理解していない、体感していないし、自分が何をやっているのかを分かっていないということだ。まあ、私自身もそんなもんであったような気もする(笑)。

というようなことは、実は横にそれた問題でもあるのだが、そういったことにまで考えが広がっていく本であった。面白かった。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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