伊藤ふきげん製作所

伊藤ふきげん製作所

2021年7月24日

「伊藤ふきげん製作所」 伊藤比呂美

「良いおっぱい悪いおっぱい」「おなかほっぺおしりそしてふともも」など、彼女の育児書には助けられました。というか、いい加減でいいんだ、という言葉に勇気付けられ続けてきたと思います。

小さかったカノコちゃんもサラコちゃんも、思春期です。サラちゃんから八年も離れて、トメちゃんまでいます。八歳違いの兄弟って、たいへんです。うちにもいますから、よくわかります。

思春期はふきげんに満ち溢れている。しかも、この家庭は、離婚し、離婚後も同居し、不安定な状態から家庭崩壊をし、かなり年の行った、しかも言葉も生まれ育った環境も違うステップダッドがいて、最期にはアメリカ移民までしてしまう。ストレスに満ちています。不機嫌にならないわけが無い。

作者は、カノコちゃんの摂食障害に立ち向かい、サラコのいらいらを受け止め、ステップダッドの矛盾を見つめます。そりゃたいへんだわ。でも、ぜーんぶ、自分でまいたタネでもありますよね。もう少し考えろよ、とも思ったりしますが。それでも、この人は、邁進する。その時々を傷つき、苦しみながらも、楽しんでしまう。好奇心と、探究心で、突き進みます。こういうサガなんでしょうか。

思春期の子ども自身が読んだ方が、面白いのかもしれない、とさえ思います。いえ、親が読んでも面白いですが。

しょっぱなから、私をぎゅっと掴んでしまった文章を、少し、引用します。

ふつうのオトナが人前でふつう持ってるルールは、「ふきげんな顔は見せない。感情はおさえる。波風をたてない」
ところが家庭の中では、そのルールが、、「ふきげんな顔は(そこまで)見せない(ようにする)。感情は(てきとうに)おさえる(ようにこころがける)。波風を(あまり)たてない(つもりでいたほうがいいのはわかっているが、そうも言っていられない)」
・・・だいぶ甘い。それで、気がつきました。家庭というところは、ふきげんさをぽんぽん顔に出せるところなんですね。(中略)
「ああ生きるって」と子どもがわかるわけです。
「こんなにいい加減でいいんだ」

(「伊藤ふきげん製作所」より)

結婚して数ヶ月たったころ、夫が会社でよほど嫌なことがあったのか、帰宅後、TVゲームでドライビングをはじめまして。必要もないのに、バンバン、ぶつけるんですよ。他の車に、ガードレールに、電柱に。明らかに、破壊行動に走っている。まだ若くてかわいい妻だった私(!!)はショックだったんですよ。せっかく帰って来て楽しく話のひとつもしようというのに、飯もそこそこに、ものもいわずにクラッシュしまくりやがって。

で、抗議したわけです。もっと機嫌よく楽しくやれないのか、と。すると、彼は言った。自分はとてもいらいらむしゃくしゃしているが、それを君にぶつけるわけには行かない。だから、ゲームにあたっている。それは自分の努力の結果である。ふきげんを、家にも持ち帰れないのなら、自分はどこに行けばいいのか。家でふきげんでいる自由をくれ、と。

なぜかその事は鮮明に覚えています。いつも明るくニコニコしている家庭なんて無理だ。でも、不機嫌な時にそれを隠さずにいられる、だからと言って、相手に当り散らさずに済む、その程度のいい加減な家庭でいいんだな、と気がついたんですね。私も、それからは、遠慮なくふきげんを家に持ち帰りましたし、ま、そこそこ、相手にぶつけない努力はしようか、と思いました。

話が逸れましたね。そんなことを、つい思い出すような本だった、と、そういうことです。古本屋で220円。悪くは無いですね。

2007/4/1