死ぬの生きるの育てるの

2021年7月24日

私が足の捻挫騒動で騒いでいる間に、井上ひさしさんが、亡くなりました。作家としても、戯曲家としても、脚本家としても、素晴らしい才能の持ち主でした。
私は、井上ひさしさんが座付き作家であるところの、こまつ座のファンでした。
最初は、西舘好子さんがプロデューサーをやって、途中で色々あって、都さんにバトンタッチ、いまは妹さんがやっていらっしゃるのかな。あそこの人間関係も、ハラハラしながら見ていました。どの人も、きらいになれない、不思議な魅力があるのです。
こまつ座のお芝居は、どれも楽しくておかしくて、深くて、胸に染み込むものでした。
もう、新作が見られないのは、本当に残念です。

時を前後して、福田陽一郎さんもお亡くなりになりました。
ひところ、木の実ナナさんと、細川俊之さんがクリスマス前後にパルコ劇場でやっていた「ショウガール」が、大好きでした。
一緒に舞台に上がって生で演奏していた宮川泰さんも、ずいぶん前にお亡くなりになりました。

時は過ぎ、人は死ぬのだと、思わずにはいられません。

たかが足を捻挫しただけで、自分の怪我を受け入れるのに一週間もかかった私です。もし、死ぬとわかったら、どれだけじたばたするだろうと改めて思いました。でも、人は死ぬのです。

虐待事件が一つ報じられたと思ったら、次々に恐ろしい出来事が明らかになりました。なぜ、小さな子どもを、人は、こんなに残虐に殴ったり蹴ったりできるのでしょう。そうして、小さな命を、踏みにじり、失わせてしまうのでしょう。

と、書きながら、その一方で、私は、子どもを育てることの困難を思い出します。まだ、子どもが小さい頃、何をするのにも、子どもがついて周り、自由な自分の時間が全くなかったこと、やりたいことがほぼ全て、不可能だった頃のことを。

子どもを育てると言うのが、こんなにたいへんなことだとは知らなくて、こんなに、ごく当たり前にしていたこと全てに子供が邪魔になるのだとわかって、愕然とした日々を覚えています。それでも、子どもは大事でかわいくて、何よりも愛しいものだったから、何とかここまで育ててきたけれど、ついかっとしてしまう、逆上して殴ってしまう、その人の気持ちが「全く」わからない、理解できない、とはいい切れません、私は。

外に仕事に出たくても、小さな子どもは一人で留守番なんてしやしません。保育園は、入るのがたいへんです。入れたとしても、免疫を持たない子供は、しょっちゅう熱を出します。この世のあらゆるばい菌、ひとつひとつと出会っては、熱を出したり、ぐったりしたり、下痢したりしながら、だんだんに免疫をつけ、丈夫になっていく。小さな子どもにとって、ちょいちょい病気をするのは、いわば大きくなるための通過儀礼です。そして、病気の子どもを保育園は預かってはくれない。病気の子どもを家に一人で寝かせておくわけには行かない。多くの女性が、子どもを産んで、仕事をあきらめたり、責任あるポストから外されてしまうのは、そういうわけです。よく知られていることとは思いますが。

だから、仕事をちゃんと続けたい女性は、子どもをあきらめます。少子化の大きな原因は、そこですよね。もし、子どもをちゃんと産んでほしかったら、社会が、子どもが大きくなるための当然の通過儀礼として、ちょこちょこ病気をしたとしても、それをフォローするシステムを作るしかないのです。私は、そう思います。

それはそうなんですが。

もう、何年も前の話ですが、うちの息子が、受けた都立高校の推薦試験は、作文と面接と集団討論の三つでした。作文の課題は、少子化対策についてだったそうです。どうしたら、少子化が防げるか、って事だったと記憶しています。

そう聞いたとき、私は、当然、働く女性をフォローするシステム、保育園の充実とか、産休とか、産後の職場復帰がしやすい仕組みとか、いろいろなことが頭をめぐりました。それは、女性にとっては、いつだってホットな問題であり、大きな課題だからです。

ところが、息子に、なんと書いたのかと尋ねて、私はびっくりしました。息子は・・・なんというか、彼が言うには、「優しい子を育てる努力をしよう」と書いたんだそうです。

温かい心を持ったやさしい子を育てる。そういう子どもが育つために、大事に優しく温かく育てる。そして、その子が大人になったとき、自分の子ども時代を思い出し、子どもを持つのってとてもいいものだと思い、また、優しい子どもを育てたいと願うようになるだろう。みんながそう思ったら、子どもだって産みたくなる、育てたくなる。子どもと過ごすのが幸せだと感じられるような、優しい人間を育てる努力をみんながすればいい、と、そんなような内容だったらしいのです。

なーにを書いてんだ、こいつは、と最初、私は思いました。何も考えてないじゃん、社会の情勢もわかってないじゃん、女性の置かれている困難もわかってないじゃん、現状を理解してないじゃん、何がやさしい子だよーん、と。そうして、ああ、これは落ちたな、と思いました。

しかし、待てよ、とも思ったのです。息子は、現実的なことは何もかけなかったかもしれないけれど、言い古されたことも何も書かなかった。自分でその問題について真剣に考えて、自分なりの答えを出して、それを精一杯書いた。その内容は、つたないとはいえ、彼の本質的な部分から出された、彼らしさにあふれた答えだ。

だとしたら。
これで、落ちても、私は全然文句は言わない。でも、もし、これで受かったとしたら。この学校は、息子をちゃんと理解したうえで、受け入れようと思ってくれたと言うことだ。だから、これで落ちたとしたら、向いてない学校だったのだし、もし、これで受かったとしたら、とっても向いている学校なのだろう、と。
そうしたら、受かったんですね。

さて、そして、時は過ぎて。
最近、私は思うんです。もしかしたら、息子は正しかったのかもしれないって。

確かに、子育てをしやすい社会システムを作ることは大切です。子育て中の女性だけでなく男性も含めて、親たちが、子どもを育てる困難を、少しでも減らすための仕組みは、とっても大事です。
ですが、それだけでなく。子どもを育てる喜び、子どもと言う存在の素晴らしさ、あったかさ、そして、子どもと一緒にいるのを楽しいと思うきもち。そういうものがなければ、結局は、うまく行かないんじゃないかと思うのです。次々と報道される虐待事件を目にするたびに、そう思えてならないのです。

まあ、それは表裏一体のもので、働きやすい社会ができれば、子どもが邪魔だとは思わずにすむし、そうすれば、子どもと一緒にいるのが楽しい、幸せだと思うこともできると言うものなのかもしれませんが。

ではあったとしても、息子、ゴメンよ、と最近思うのです。彼の書いたことは、実は、本質を突いていたのだな、と。

ところで、この日記を私は4月に書いたのですが、なんとなく照れくさくて、ここには公表しないでおりました。が、息子に先日読まれちゃったそうなので、やっぱり載せた次第であります。

2010/6/22