少年犯罪の風景ー「親子の法廷」で考えたこと

少年犯罪の風景ー「親子の法廷」で考えたこと

2021年7月24日

佐木隆三 東京書籍

「復習するは我にあり」の作家です。犯罪事件を取材して、レポートする仕事が多くあります。

この本は、酒鬼薔薇聖斗事件、宮崎務事件、永山則夫、女子高校生監禁殺人事件、教師夫婦によるフリーターの息子の殺害事件、そしてオウム事件などを通じての考察をまとめたものです。

我ながら恐ろしいと思うのですが、少年犯罪のルポなどは、よく読む方です。他人事ではない、という気持ちもあるけれど、やはり興味がそこにあるのだと思います。私の中の何ものかが、少年犯罪にひきつけられる。それは、私が母であるということだけでは説明できないと自分で感じています。親としての自分ではない、心の暗い闇の部分が、こういう本を読みながら、ごそごそとうごめくのを感じます。

佐木氏は誠実な作家です。自分の娘、息子を思い、自分がその立場だったら何を感じ、何を望むだろう、といつも自問自答しながら、事件にかかわって行きます。被害者、加害者、双方の立場に想像力を働かせる公平さがいつも存在して、そこに私は信頼を置いています。

少年犯罪の過去には、非行があり、家庭の不幸がある。これはやはりかなりの重みを持った真実です。親子の関係の不具合が、犯罪に繋がってくる。この事実に、身を引き締めない親はいません。

まじめで暖かく熱心な教師、生徒達から慕われ、本当に我々のことを心から思ってくれていたと生徒達が口々に言う教師が、息子を殺しています。愛情あふれる人だった、はずなのです。そういう事実に、戦慄します。

成績優秀で、地元の有名進学校に入学し、誰からも尊敬を勝ち得ていた息子が、だんだん堕落していく。それでも、一浪してとりあえず一流どころの大学に入るが、どんどんすさんで行き、家庭で激しい暴力を振るうようになる。家族が皆、耐えられなくなり、ついには殺害を決意する・・・。

暖かい愛情あふれる教師だったという父親は、しかし、子どもの負の感情を受け止めるすべを持っていなかったのではないか、と読みながら私は考えます。前向きで、いつも、より良いものを求め続けた彼を前にして、息子は自分の中の弱い部分、闇の部分を見せる勇気が出せなかったのではないか、と。

またか、と思われるかもしれませんが、先日、子どもの問題を扱ったTV番組の中で、千原ジュニアが「(引きこもりをやめて部屋から出てくるまで)もうちょっと待ってくれ、とお母さんに直接言うことはできなかったの?」という問いに対し、「それは恥ずかしかったし、言っても分かるとは思えなかった」と答えていました。壁に穴を開け、室内で暴れ狂っていて「恥ずかしい」もあったものではない、とも思うのですが、「恥ずかしい」という表現は、「そういう感情は、そこで発するものではない」という不文律の存在をほのめかします。わかってもらえない、という絶望感と、そもそも、そういう感情の存在自体を否定する空気が家庭にあったのではないか、と思うのです。

どうしようもない闇の感情、人間の暗く後ろ向きな気持ち。そのの存在自体を否定してしまう家庭にあって、自分の中のそういう部分に気づいてしまった子どもは、行き場を失うのではないでしょうか。「そういう時はこうすればいいのよ」と正解を常に出す親がいると、正解ではない、誤答を出すことしかできない自分は決して受け入れられないだろう、理解されないだろうと絶望するしかありません。親が、よき親であろうとすればするほど、子どもは追い詰められる。そういう側面もあるのではないかと、読みながら私は考えたのでした。

2007/3/16