「うまいもん屋」からの大坂論

「うまいもん屋」からの大坂論

2021年7月24日

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『「うまいもん屋」からの大坂論』江 弘毅 NHK出版新書

関西は、食べ物が美味しい。これは、転勤族として全国を歩き回った我々夫婦に共通する認識である。東京では、高いカネを出せば、いくらでも美味しい物が食べられる。しかし、関西は、ごく普通の、街の、そこらへんの食べ物屋が、びっくりするくらい美味しいのである。それも、ごく普通の価格で。

それでも、京都と大阪では、肌合いが違う。京都は少々敷居が高い。別に無理してうちの店にこんでもよろし、とでもいうような気位の高さが垣間見える。大阪は、まあいいから、入ってつまんでいき、とでもいうような気安さがある。これが、神戸になると、もっとエキゾチックだったり、気取っていたりと、また、変わってくる。

この本の前書きに、まず私はノックダウンされた。大阪と京都の違いを、見事に言い当てているのだ。こんなふうに。

 よく言われることだが、大阪の街や飲食店は、一見さんでも馴染みのように扱ってくれる。カウンターに座れば、どこから来たのだと尋ねられたり、今日のうまいもんを店主がすすめてくれたりするのが大阪だ。そういうコミュニカティブな「大阪人」が店側にいて、客側も実際に馴染みになり、そこにコミュニティ的な「地元意識」が生まれる。
(中略)
翻って大阪と同じ上方の隣の街である京都、とりわけ祇園などの花街でよく言及される「一見さんお断り」社会は、「知り合いばかりで、みんな良い人限定」でやっていく関係性だが、実は完全に閉じてはいない(でないと店は潰れてしまう)。けれどもそこには誰かの紹介があってその店に行くという第一歩、すなわちはじめからその店と「知り合い」になるという前提がある。
しかし、そのような人付き合いの関係性の濃密さが時には欝陶しい。そういうことを街場の大阪人は知り抜いている節がある。(中略)「入りやすく出やすい店」だが、それでも「馴染み感覚」がある。その微妙なコミュニケーション作法が、「知り合いばかりで、みんな良い人、おもろいヤツ」の理想の上で、「知り合い」をどんどん増やしていく。それが大阪の「うまいもん屋」の本質なのだろう。

(引用は『「うまいもん屋」からの大坂論』 江 弘毅 より)

筆者は、関西の情報誌「ミーツ・リージョナル」の元編集長である。雑誌にグルメ情報を掲載するため、様々な店を食べ歩いている。だが、ただ雑誌やネットで情報を調べただけでは決して出会えない、うまいもん屋との出会いをここで書いている。

いくつかの店のカウンターで、店主とやり取りしながら「うまいもん」を食べていく描写は圧巻である。その日、その時でないと食べられない、店主のおすすめと、自分の好みのすり合わせによる至福のひとときが、そこには描かれている。うー、こんなふうに、私も美味しいものを、食べたい。食べることの幸せが、そこにはある。

2012/4/9