「老年症候群」の診察室

「老年症候群」の診察室

2021年7月24日

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「老年症候群」の診察室 超高齢社会を生きる

大蔵 暢  朝日新聞出版

私は、離れて暮らす高齢の両親と毎日メールをやりとりしている。震災後、非常時の連絡手段にと勇気をふるって携帯電話を購入した両親である。携帯の使い方を忘れないためと、ボケ防止に役立つのではないかという魂胆と、安全確認のために、まるで恋人同士のように親子でメールを交わしている。

熱心な読書家だった父が、目が悪くなって、だんだん読むのが苦痛になっていく。母が、生協の注文用紙を書き込むだけで疲れてしばらく休憩を取らねばならない。そんな姿が日々伝わってくる。徐々に老いていく様子が手に取るようにわかり、切ないものもある。

高齢者は、病気か健康かの二元状態ではなく、加齢そのものによる体の変化や、高齢者特有の問題を抱えた、健康でも病気でもない不安定な状態・・・虚弱状態にある、とこの本にはまず書かれている。

そうなのだ。どこが悪いというよりも、すべての器官が衰え劣化して生活がだんだんに不自由になっていく。老いとはそういうものだと、私は日々改めて思い知らされている。

人間は臓器の集まりでできており、どれかが不具合を起こせばその臓器の専門家が診て治せばよい。20世紀の医療はこの考えをもとに循環器科や消化器科などの診療科が分化して、それぞれの分野での診断・治療が向上し「病気を病院で治療する」病院医療が発展しました。

体のあちこちが劣化した高齢者は、それこそあちこちの診療科を受診し、それぞれの診断、治療を受けることになる。すると

ほとんどの医療行為にはその優れた効果があるものの、必ずと言っていいほど副作用や多臓器への悪影響があります。各臓器が健常で予備能力が豊富な若年層の場合はこれらの悪影響が表出することはありませんが、残存している予備能力が著しく低下している高齢患者さんがいろいろな症状に対して多くの薬を服用した場合、相互作用や副作用が出現しやすいのです。

また、多くの医療を受けた結果、どの医師も責任をもって「その人全体」を見ていないという不幸な事態が起きてしまう。実際、私の父は眼科で緑内障を診てもらい、内科で高血圧の薬をもらい、循環器科で心臓の検査を受け、消化器科で大腸ポリープの切除を受けている。それぞれの医師が連絡を取り合ったことなど無いし、また、いずれかの治療が何れかへ何らかの悪影響を与えているかのチェックもない。私が見るに、高血圧の薬は、父をとても弱らせているようにしか見えない。父もそれを感じ、血圧の状態から、薬をもう少し減らしたいと訴えているのに、このままで、と受け付けてもらえていない。そこに、納得の行く回答もないという困った状態である。

薬によっては、長期間服用して初めて効果が出るものもあるし、また、服用者の数割にしか効かないという薬もある。医師の勧める薬をうのみにするのではなく、なぜ、何のためにその薬を服用するのかをよく理解することの大切さについても、この本は教えてくれる。

「治る」ことを目指すのだけが医療ではない、現状の生活状態をできる限り維持したり、徐々に衰えながらも少しでも本人の望む生活が長く味わえるように工夫するのも、また大事な医療である。

訴えが多く病態が複雑な、虚弱な高齢患者さんの診療から逃げまわっていた私が、今はその複雑で難解なところが面白くなって、困ったことに若年患者さんの治療がむしろ少し退屈に思えています。
 医療の目的は余命の延長や病気の治癒にほかならないという視点からは、老年医学や高齢者医療は何もできない(しない)ほとんど希望のない医療に映るかも知れません。しかし超高齢社会のまっただ中にいる日本の医療には、虚弱な、人生の大先輩方が多くの病気や障害、悩みを抱えながらも、より長くより良く生きる事ができるようにサポートし、幸福に満たされた人生の最終章をおくれるように演出するミッション(使命)があると思います。
           (引用は『「老年症候群」の診察室より)

老年医療は、親たち世代だけではなく、これからの私たちの問題でもある。治すことだけを目的とした医療だけでは取りこぼすものがある。その取りこぼしたものこそが、最も多くの人に必要となる。そんなことを改めて考える本であった。

2013/11/11