精神のけもの道

精神のけもの道

2021年7月24日

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「精神のけもの道 つい、おかしなことをやってしまう人たちの話
春日武彦 文 吉野朔実 漫画

精神のけもの道とは、人の心の働きにおいて、なるほど論理的で整合性はあるもののそれが「普通の人の日常的な文脈」からは逸脱してしまい、しかも何か過剰なものを現出させてしまっている人物の様態を指す言葉である

人間というのは、どんなに変なやつでも、病気でも、基本的には論理的だ、と筆者はいう。だよねー、と読んでいて私も思う。理解しがたい、とんでもない人間を頭から非難するよりは、なぜ、彼は、あるいは彼女はそういう行動を取ったか、とあれこれ考えるほうが、私は好きである。いろんな推察をしてみると、それが合っているかどうかは別として、その人には、その人なりの論理があったのだ、と思える場合がほとんどだ。そうして、そう考えることによって、その人への怒りや戸惑いは、案外和らいでしまう。自分の精神衛生を保つためにも、その人の論理を推察することは、結構、有効だ。

というわけで、この本には、そんなけもの道に踏み込んでしまった実例と、ちょっとした漫画が12話載っている。身につまされる話が多い・・ってことは、私も実は、時々けもの道を歩いているのかもしれない。

精神病院の長期入院患者の中には、しばしば日記マニアがいるという。その日の天気、献立、服用した薬が何錠であったか、そんなことがみっしりと書かれているだけで、ちょっとした雑感やエピソードすら書かれていないという。

という話に、私は愕然とする。乳児を二人、育てている間、私は育児日記を毎日付けていた。何時に授乳したか、何を食べたか、だけを延々と断乳の日まで、ひたすら克明に記録していたのだ。母乳だけで育てた私は、誰かに乳児を預けることもままならなかった。母乳はミルクほど腹持ちが良くなくて、三時間おきの授乳なんてのは夢のまた夢、うっかりすると一時間おきに授乳・・・ということは、その前後の作業も合わせると、ほぼ、一日中、ずうっと授乳し続けているだけ、のような状態に陥る。断乳するまでの一年間程、私は自分が単なるおっぱい製造機になっているような気がしていた。それは、子どもたちには失礼かもしれないが、ちょっとした長期入院に近い状態だったともいえよう。

あの頃は、ただ、何時何分に授乳した、次の授乳までにどれくらい時間があいた、と記録することに、確かに何らかのやすらぎを私は得ていたと思う。それが何の役に立つわけでもなく、それによって何の報酬もないにもかかわらず、記録することは、私には必要だった。・・・・というか、今だって、読んだ本や、旅行中の出来事を、こうして記録することに、私は支えられて生きている部分がある。さすがに、ちょっとした雑感やエピソードを書いているから、長期入院患者の記録よりは意味があるのかもしれないが、まあ、基本は同じよね、と自分でも思う。おお、やはり私もまた、けもの道を歩く者の一人なのだ。

神経症を説明するのに、筆者は、借金で首が回らなくなった多重債務者を使う。あちこちで借りまくっていると、借金の全貌がつかめないし、問題に直面できない。だから、借金を一本化して、これさえ返せば問題は解決する、という状態にする。それと同じように、いろいろな場面で色々な悩みや困りごとや不安材料を抱えている人間が、悩みの一本化を図ったのが、神経症の症状である。一つの具体的な不幸を定位し、それ以外の問題を「それどころじゃないよ!」と切り捨てるのだ。だから、神経症の患者は、治りたいと切望すると同時に、治りたくないと無意識に考えるのだ。

受かりもしない司法試験に一生を費やすとか、広場恐怖症のために引きこもりに近い暮らしを送るとか、バイトをしながら小説の新人賞応募を繰り返して老年期を迎えるとか、食費に不自由しても見栄のために豪邸に住み続けるとか、道路建設のための立退き要請に「断固拒否!」とバリケードを作って頑固ぶりを見せつけるとか、泡沫候補と揶揄されつつも選挙のたびに立候補を繰り返すとか、そのような営みを見ると「つまらないことをしているなあ」と呆れると同時に、わたしは何やら懐かしさに似た心地よさを覚えることがある(その反対に、どこか身につまされるものを感じ取ってげんなりすることもあるが)。

まさに、その通り、と私は頷く。そういう人たちに、げんなりしながら、自分の中に、似たようなものがあることを、いつも私は感じる。であるからこそ、そういう存在に、心が引っかかるのだ。

そんなこんなで、うんうん、なるほど、と思いながら読みもしたのだが、その一方で、この作者、偏見がきつすぎない?というか、決めつけ過ぎてない?という違和感も同時に感じる。

「トロッグス」というバンドのボーカルが、レンガ職人であったことを知って、腑に落ちた、という記述がある。

個人的には、レンガ職人というのは世の中で最も退屈で「つまらない」職業である。あの赤茶けたブロックを運んでは水平に積み、セメントで固定する。たんにそれの反復でしかない。
仕事としてのスリルも達成感も乏しい。たとえレンガで万里の長城みたいな建造物を積み上げたとしても、「俺がこいつを作ったんだ」という晴れがましい気持ちや充実感はさして覚えないのではないか。そんなことよりは、疲れたとか面倒だったとか、そういった感情のほうが先に立ってしまうのではないか。だいいちレンガ積み業界には「天才的なレンガ職人」などというものの存在する余地がなさそうな気がする。
そんな次第で、レンガを積んで腕は太くなったが気分は荒みきっていたであろうミスター・プレスリーがバンドを結成したとすればきっとこんな音を出すだろうというまさにそんな曲が、トロッグスのレコードからは聞こえてくるのだった。

そこまで言うかよ!と思ってしまう。ほかにも、いかにも売れなそうなサンダル屋を、世間的に見て、愚か者、と定義している部分など、疑問を感じるところが多々ある。いや、あれはあなたが知らないだけで、実は大量取引相手がいたりする店舗なのかもしれないじゃないですかね?と、言ってみたくなる。毎日、色々な患者さんを相手にしていると、即座に分類分別したくなるのかもしれないけれど。それでも、そういった自分の知らない部分への想像を省略した頭ごなしの決め付けや偏見に出会うと、私には気になってしまう。それとも、これは単なるレトリックなのだろうか。

(引用はすべて「精神のけもの道」より)

2011/5/24