評伝 大村はま ことばを育て 人を育て

評伝 大村はま ことばを育て 人を育て

2021年7月24日

「評伝 大村はま ことばを育て 人を育て」 刈谷夏子 小学館

私はこの方のことを全然知りません。知らないのに、何だか見たことがある、知ってるような気がする、と思っていて、ふと気づいたのですが、たぶん、このお名前が、使っている教科書のどこかに載っていたのでしょうね。それから、朝日新聞の「いま学校で」というシリーズ記事にも載っていらしたそうなので、そちらでも知らずに読んでいたのでしょう。それは、後から気づいたことで、実際には全く何も知らない状態で、この本を読んだことになります。

面白かったです。厚くて重い本でしたが、途中で嫌になることは全くなかった。出かける時も、うんうん言いながら持ち運んで、読み終えるまでずっと読み続けたいような本でした。

大村はまさんは国語の教育者です。教師です。その教え子である著者が、彼女の一生を追って書いたのがこの本です。

よく知らなかったこの方の育った過程に、私との接点や共通点が幾つもあって、興味深かったです。
ご両親とかかわり深く、またご本人も幼少期を過ごした札幌は、私も住んだことがある土地で、私の家のすぐ近くの地名や学校やお店がいくつも登場して、懐かしかったです。
彼女と同じように、私も敬虔なプロテスタントの家庭に育ったので、その空気や雰囲気というものもまた、ありありと想像できました。
横浜で父親が関わったというYMCAは、私の父も深い関わりがあったし、さらに言うなら、姉との確執のような感情も、共感するものがありました。

はまを思春期の入り口のころから苦しめていたのは、集団の中でどうしても突出してしまう自分と、それをすんなりと受けとめてはくれない集団との、どうにも調整が難しい関係だったにちがいないが、東京女子大時代の三年間は、それが楽だった。(中略)

そして、勉強と読書に本格的に打ち込んだ生活が、あるやすらぎをはまの周りに作り上げた。打ち込むことの幸せというものは確かにある。勉強というものは文句なく面白いのだと、はまはこの三年の間に確信した。面白くないのだとしたら、それは勉強の方向がおかしいか、打ち込み方が足りないか、程度が自分に合っていないか、そんなせいにちがいない。自分の程度に合った内容を、ふさわしい方法で、一生懸命に勉強したら、それは、もう絶対に面白い。
(「評伝 大村はま」より引用)

世間とは少し違った家庭の中で育って、それがあたりまえだと思っていた彼女が、大学に入って、かけがえのない自由を手に入れたその感覚は、私と全く同じものです。

私は、文章を書く事がとても好きで、そのせいでここにもこうやってやたらと書き散らしているのだけれど、なぜ、こんなに書くのが好きなのかが、次の文章に出会って、なんだかわかった気がしたのです。

「書く」ということは、すでに整理のついた、結論の出たことを書かなければ価値がないわけではなくて、「書く」ことそれ自体によって、心や考えがピンで留めたように紙の上にとどまり、その集中によって、知らず知らずのうちに考えが深まっていく。そうやって自分が自分を育て、その成長を客観的に見つめることになるー。
(「評伝 大村はま」より引用)

はまの授業を私は一度も受けたことがなく、その知識もなかったけれど、彼女がやってきたという幾つかの授業の内容を読んでいくと、何だか懐かしいような、不思議な既知感があるものが多かったように思われます。

たとえば、「ことば」という言葉を調べるという授業で、子どもたちは、教科書一冊をまるごと読みながら「ことば」という言葉が出てくる具体例を探し出してカードに書き出し、それがどんな意味で使われているかを比較しながら分類していって、最終的に、それがどんな意味で使われているかを自分の言葉で説明するところに至ります。

それによって、「ことば」という項だけのある、クラスの人数分の辞書が出来るのです。そして、その授業で子どもが知るのは、ことばという言葉の意味そのものだけではありません。
世の中のあらゆる分類というものが最初から存在したのではなくて、こんな風に実例を集め、じっくり整理するという過程の果てに出来たものであるという発見や、辞書のような権威も、ひとりひとりの人間の手によって地道に作られているという実感、そして、自分もそれができるのだという手応えと自信、また、次に何かやってみたいという強い知的好奇心など、本当に幾つもの幾つものことが、折り重なるようにして、それを体験した子どもの心の中に吹き込まれるのです。

・・そして、そういう経験を、私はたくさんの読書を通じて子どもの頃からやってきたなあ、としみじみ思うのです。
それは、この授業のように狙いを持って体系付けられたものではないけれど、何冊もの本を読み、いろいろな物語の中の出来事に出会うその中で、確かに私は同じようなことを感じ、得て来たなあ、と思い返せるのです。
それは、私にとっては国語の勉強ではなく、楽しい自分だけの時間であったけれど、そうか、それは勉強であったのか!と、この本を読みながら、少し驚いたりもしたのです。

はまは、国語教育に熱心なあまり、周囲から突出し、ある人達からは熱狂的に受け入れられ、ある人達からはひどく憎まれます。それは、仕方ないことかもしれないなあ、と読んでいて私は思いました。
彼女の情熱は素晴らしいし、彼女に教えられた子供たちは確かに幸せだっただろうと思います。でも、その熱心さ故に、切り捨てられたもの、踏みにじられたものも、絶対にあっただろうと、読んでいて感じます。

だとしても。この本の著者が書いている、この言葉に私は胸打たれました。

私たちの抱える困難は、テロや紛争だけでなく、貧困や飢餓や自然環境問題など、何だかこうして普通に暮らしているのがおかしく思えるほど、たくさんある。それらをなんとか解決していこうとするとき、共通する決定的な「武器」となるのは、ことばと話し合いではないのか。少数のエリートだけでなく、みんながそういう力を持たなければいけないのではないのか。子どもたちに教えたいのはそういうことで、だから、大村はまはあんなにむきになって教え続けたのではないのか。
それで、私は、大村はまの仕事を、たくさんの人に知ってほしいと思った。ことばで世界と対することを教えるはまの仕事を、知ってほしかった。
(「評伝 大村はま」より引用)

これは本当に美しい言葉で、こうやって作者がこの本を著したことで、大村はまの成した仕事の意味と力はしっかり伝わってくる、と私は思いました。
大村はまも素晴らしいが、刈谷夏子もすばらしい。
と、私はこの本を読んで思ったのです。

2010/10/31