なぜ勉強するのか

なぜ勉強するのか

2021年7月24日

上の息子と、散々話してきたことです。
彼は、しょっちゅう、そんな議論を私にぶつけてきました。
ただ単に、勉強したくないからだろ、そんな議論してる暇があったら、単語のひとつもおぼえろよ!って言いたいのをぐっとこらえて、何時間でも話をしたものです。
ムダな時間かも・・と思いつつ、でも、そこをきちんとしておかないと、この子は先に進めないのではないか、と思ったからです。
それに、ちゃんと答えられなかったら、「勉強しなさい」なんて言う資格は、私に無いだろうとも思いましたし。

と言っても、私が正解を知っていたわけではありません。
その時、その時で思っていることを、できるだけ丁寧に話しただけです。
伝わったことも、伝わらなかったこともある。
でも、息子は、勉強しようって思ったらしいし、そうして、彼なりには勉強して、大学に進学したわけです。
やれやれ。

とひと息ついていたら、今度はおちびです。
昨日、宿題のプリント見たら、ひとつ、ごく単純な計算ミスがありました。くり上がりの間違い、これって、二年生レベルじゃない?って奴です。当然、指摘して、直させたのですが、憮然として彼女、こういうのです。
「電卓ってものがこの世にはあるのに、何で計算しなくちゃいけないの?」

うーむ。確かにそうです。
親である私も、普段、ちょっとした計算は、電卓に頼っちゃいます。手計算なんて、おちびの勉強を見てやる時以外、ほとんどしません。将来、自分の子どもの宿題を見てやるために、計算できた方がいいよ、という理屈はダメでしょう。同じことを、私、子供のときに母親に言われて、それなら、そもそも宿題というものを廃止すれば、全ての問題はクリアするではないか、と看破しました。

いやいや。もし、電卓が、壊れていたら、それを誰が気がつけばいいのか。あるいは、悪いヤツがいて、自分に有利なように、自分にはたくさんお金が入り、人に返すお釣りは少なめに計算するように、電卓にちょっと手を加えていたら、どうする。ちゃんと計算できなかったら、それに気付けないじゃないか。

じゃあ、計算は、分かった、とおちびは言います。
国語も、たぶん、人と話をしたり、いろんなことを伝え合うために、字が書けたり漢字が書けたり、文章が理解できたりした方がいいというのもわかる。だけど、社会はどうよ、理科は、どう?何のために、必要なの?理科なんて、全然いらない気がする。おかあさんは、メダカの雄と雌の見分け方を知っていて、今まで生きていて、役に立ったこと、あるの?と。

そういえば、メダカの雌雄の見分けを、実生活で役立てたことはなかったかもしれません。でも、役に立つかどうか、だけが問題じゃないのかも。
たとえば、生物には雄と雌とで姿形が違うものもある、という事例の一つとして、メダカを教わるわけで。その様に、生物にはどんなものがあって、どんな特徴があって、どのように生きているか、ってことを学ぶ一つの手段としてメダカが使われるのであって。

この世の中の全ては、実は理科でできているとも言えるんだよ。
そこにあるテレビを作るのも、理科。これから食べるご飯の材料を育てるのも、理科。調理するのも、実は、理科。食べて消化するのも理科だし、ほら、ちょっと椅子をずらすのだって、実は理科。何をやっても理科なんだよ。

でね。たとえば、テレビをどうやって作って、どのように電波が運ばれて映るのか、実はお母さんは、詳しくは知らない。お米の育て方も、どんな肥料をやって、どのように世話をするのか、あるいは、お米の遺伝子がどんなものか、その種はどのような歴史を経て作り上げられたのか、詳しくは知らない。そういう専門的な、うんと詳しいことは、きっと理科系の大学とか専門学校へ行けば、詳しく習えるんだと思うけど。
ただ、電気ってどんな風に流れるのか、生物の育ち方って、大体どんなもので、どんなふうに栄養を取れるのか、ごく基本的なことは、小学校や中学校で習ったから、知っている。くわしくはないけれど、電気や生物の基礎知識なら、持っている。

社会だって、どうやったら景気を回復出来るのか、とか、外交政策の正しいあり方とか、そんな難しい専門的なことは、正解を知っているわけじゃない、って言うか、だれも知らないのかもしれない。だけど、世の中の大体の仕組みがどうなっているのか、どうやってお金が流れているのか、世界の産業や文化がどうなっているのか、ごく基本的な知識は、小学校や中学校で習ったから、知っている。

義務教育ってね、そういう一番基本的な、根っこになる、大体の世の中のありかたを教えてくれるものなんだと思う。
そしてね、みんながそれを知っている、ってことが、すごく大事。
誰か、一部の人しか本当のことを知らない世の中だったら、その人たちは、社会の仕組みやお金の流れを、自分に都合のいいように、いくらでもねじ曲げることができる。でも、みんながちゃんと知っていたら、誰かがおかしなことをやっていたら、あれ?それ、違うんじゃないの?そんな事したら、この人たちが不幸になるよ、この人たちが損するよ、って気がつくことができる。

専門的なことを詳しくは知らなくても、怪しげなことをされたら、なんだかおかしいぞ、って気がつくことは、ある程度基礎知識があったら、できることが多い。沢山の人が、気がつける方が、安全でしょ。そして、うんと詳しい人たちも、みんな、わかるんだろうな、気がつけるんだろうな、非難されちゃうな、と思ってたら、なかなか悪いことはできない。ちゃんと、みんなの役に立つことをしようって思うようになる。
だから、義務教育って、大事。みんなが分かってる、ってことが、実は、世の中を安全に平和にするために、大きな力になるんだよ。

それから、義務教育は最低限のことは教えてくれるけど、それよりもっと詳しく、いろんなことを知りたいと思ったら、高校や大学や専門学校に行けばいいの。やっぱり、何かには詳しくなっておく人がいないと、人間は進歩しないからね。人に進歩してもらって、それにおんぶするばっかりじゃ、つまんないじゃない?だから、自分が、これには詳しくなりたいぞ、上手になりたいぞ、って思うものがあったら、義務教育だけじゃなくて、もっと先まで勉強した方がいいと思う。
それが、実際の日々の生活に直接役に立たなくても、それを知ってる人がいる、と言うことが、既に、何かの役には立つんだから。

・・・・なんて、話しながら、あら、私、そんなこと考えてたのね、と思いました。

前の日記に、「ルポ資源大陸アフリカ」について、書きました。アフリカの絶望的な状況を知って、一体、これを打破するにはどうしたらいいんだろう・・と考えていたのです。
本の中では、ある人は、お金があったら、学校をまず、建てたい、教育を子どもたちに施したい、と言っていました。でも、かの地では、高い教育を受けた人は、ほんのひとにぎり。そういう人達は、自国の現状に絶望して、外国に移住してしまったり、自国にいれば、知識を利して、自分やその一族に富が流れ込むようなシステムを作り出してしまう場合がとても多いのです。教育を受けさせたって、そういう人達は、特権階級にしかならないから・・・と、そこで私の思考は止まっていたのですが、おちびと話をしていて、はたと気づいたのです。あまねく教育の行き届く事の、大いなる意義を。

学ぶこと、勉強して、知識を増やし、世の中を知ることは、安全で平和で誰もが幸せになれる社会を築くためにとても大事で必要なこと。そういう視点を、忘れていました。勉強するのが、当たり前すぎるこの国では、そんなことは意識する必要すらないのですね。ごく恵まれた人しか学べない国を知り、想像することで、初めて私はそこに行き着いたのです。いまさらですが。

しかしながら、小五の子どもに話すには、少々情報量が多すぎましたね、とスクールカウンセラーをなさっているお友達に言われました。確かにそうです。一気にまくし立てたけれど、どこまでおちびに通じたことか。それに、これだけ私がしゃべり倒してしまったおかげで、おちびは自分で考える余裕がなかったのかも。

スクールカウンセラーさんのお薦めとしては、「そうだね。どうして勉強しなけりゃいけないんだろうねえ。」だそうです。なるほど。そこで立ち止まって考える事。自分で考える事。そんな機会も与えられる親でいたいものだ、と私も思いました。

思いましたが、今回は、おちびに、私の思考を深める機会をもらったということで、感謝して、ここは終わりとしましょうか。

(ところで、もちろん、勉強する意味は、そればかりじゃありません。ここに書いたのは、勉強する意味の、ほんの一部に過ぎません。そもそも、学ぶことは、人生を豊かにすること。知らなかったことを知り、わからなかったことがわかり、できなかったことができるのは、生きる歓びです。そして、せっかく生まれてきたんですもの、この世のあり方を、ほんの少しでも理解できたら、それは、理解できないよりはずっと深く楽しく素晴らしいことだと私は思っています。)

2010/3/25