スモールワールズ

スモールワールズ

16 一穂ミチ 講談社

吉川英治文学新人賞受賞だって。こういうのはイヤミスとは言わないのだろうか。昔、湊かなえの「告白」を読んだのだが、後味があまりに悪くて、以後、彼女の作品に一切手を出していない。ああいう作品を「イヤミス」というのだと聞いて、二度と読むまいと思ったものだ。

短編が六編。DV、不妊、難病、育児ノイローゼ、非行、犯罪厚生、トランスジェンダー、アルコール依存症。現代的な様々なテーマがある。中にいる人は、自分が悲劇の人だなんて思ってもいなくて、毎日をそれが当たり前であるかのように生きている。けれど、時々つらすぎて、つらいということに気が付いてしまって、どうしたらわからなくなる。そんな気持ちを誰かに話すこと、伝えること、表現することは、つかの間の安楽。そして、時に、そこから抜け出せることもある。だからといって問題が解決するわけではない。というか、解決って、何。

一つ一つの短編ごとに、こんなエンディング、全然明るい気持ちになれない、と思ったり、これってアルジャーノンにそっくりじゃん、と思ったり、もうやめてよ、こんなの読みたくない、と思ったりしながら、結局、六篇すべて読んでしまった。で、読み終えたらそれなりに読んだ意味はあるような気がしてきた。

親に罵倒されたり殴られたりして育った子供が結構、登場する。暴力は受けなかったが、理解はされなかった子供も。読んでいて辛くなるのは、私も親に理解された子供ではなかったからか。親は私に愛情をくれたのかもしれないけれど、それは自分の持ち物を大事にするかのような愛であって、私がものを考え、どんなことを喜んだり悲しんだりするのかや、親とは別のひとりの人間であることを分かってもらったわけではなかったからか。でも、じゃあ、私はどんな親なのか。

子育てに追いつめられる物語は、私自身の当時のつらさをありありと思い出させられて嫌になる。(つまり、この本にはそれだけの力はあったのだろう。)世界中でたった一人で、ちいさな赤ん坊をどうにか生かし切らねばならないのに、誰も助けてくれなくて、自分には荷が重すぎて、体力的にもきつくて、精神的にはもっとつらくて、私以外の同い年の友達はみんな生き生きしてるのに私だけが家に縛り付けられているみたいに思えてならなくて、でも赤ん坊は限りなくいとしくて可愛くて、こんな私が母でいいのかと不安にもなって。そんなどうしようもない日々がいきなり蘇ってきて、ページをめくりたくなくなるほどだった。ベランダからわが子を放り出して自分も身を投げちゃう母親の気持ちが、私は今だってわかる。そうしちゃいけないことは十分知っているけれど、そこまで追いつめられる気持ちは、今だってものすごくわかっちゃうし、責められない。なんてことを考えていると、なんで私この本を読んでるんだろうとうんざりもした。

アル中の父親の葬式をする後輩と久しぶりに会う先輩の物語が最後だった。この間「ハンチバック」で唐突に思い出した二ーバーの祈りの文言がその中に出てきて、ああ!と思った。

生きるって結局そういうことだよね、とまたもや私は思う。どうしようもない自分を受け入れて、でも、努力も忘れない、そして日々を大事に生きる。たったそれだけのことだよね。

子どもはちゃんと大人になったし、両親は年老いて、父は死んだ。これまで生きるということをずっと続けてきて、周りの人も環境も変わった。そして私は今も生きている、それも結構幸せに。だから、この本だって最後まで読めたというわけだ。