ハンチバック

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15 市川紗央 文芸春秋

久しぶりに会った友人がこの本を話題にあげた。「知らないことだらけで、そうなのか!と思った」というようなことを言っていた。芥川賞を受賞して以来、様々な場所で話題になっていたから、作者が障害をもった人であること、紙の本が重くて読めないこと、それゆえに紙の本を憎んでいることなどは知っていた。

だが、読んでみたら、思っていたのとは少し違っていた。ここから先はある程度のネタバレになるので、これから読むつもりの人は読まないほうがいいと思う。

主人公はミオチュブラー・ミオパチーという病気である。体が正しい設計図を内蔵していないために、小三のころから背骨が曲がり始めた。成長期に育ちきれない筋肉が心肺機能において正常値の酸素飽和度を維持しなくなった。以来、歩かなくなってもうすぐ30年。喉に呼吸器をつけているが、コネクタを外して短時間移動することもできる。非常に裕福だった両親が彼女のために設立したグループホームに今はいる。十分な財産と収入があり、必要な援助介護を受けて生活している。二つ目の通信制大学を受講中の大学生でもある。

PCを使ってWEBメディアのライターもしている。それは重度障碍者が社会と繋がる手段の一つである。お金目的ではないので、収入は全額、居場所のない少女を保護する子供シェルターやフードバンクやあしなが育英会に寄付している。ツイッターには別アカウントをもち〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉〈マックのバイトがしてみたかった〉〈高身長美男美女でブラックカード持ちの両親に生まれた165センチの私は健常者だったら天下とれたのに(何の天下だよ)〉などなどツイートしている。身長150センチの介護担当者田中くんは、主人公くらいの金なら持ってみたいという。そんな彼との様々なやり取りも描かれる。

ふと思う。この主人公は、十分すぎる以上に十分な財産をもっている。だが、グループホームから一歩も出られない。紙の本が重すぎる。マックのバイトもできない、娼婦にもなれない。一方、田中くんの体の中には正しい設計図がある。低身長はルッキズムの世の中では不利であるし、彼はお金もない。だから、それが、何。

この主人公ができるのは、PCに向かって文字を打つこと。それも長時間続けると、無理な姿勢によって体を痛めつけることになる。けれど彼女は発信する。自分を表現する。言葉を綴り続ける。そして、自分という人間や、同じような重度障碍者がいて、何を思い、何をしているのかを知ってもらおうとしている。

読んでいる私は、もともと非常に忘れっぽかったりうっかりすることの多い人間で、よく失敗をする。どんなに反省しても、また失敗する。そして、いよいよ老人の域に達しつつある。衰え、失い、損なわれていく自分を感じている。だから、それが、何。

人は、生まれたときに与えられたものを抱えて生きてくしかない。つくづくとこの頃、そう思う。どんな美貌も才能も恵まれた環境も、持つ人もいれば持たない人もいる。障害も、困難も、苦悩も、生まれたときに与えられた環境は選べない。だとしても、その中で、人はできることを見つけ、生きていくしかないのだろう。

依存症患者の集いなどでよく唱えられているという「二ーバーの祈り」の一節を思い出す。

変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

私はこの本を読んで、重度障碍者の日常や、その中で何を考えているかということを、初めて知り、初めて考えた。そんなことを考えたことがなかったことにも、初めて気がついた。気がついたのは、この本を読んだからであり、この本が作られたからであり、この文章を作者が書いたからである。それは、彼女にしかできないことであった。その事実に、私は感銘する。人は、与えられたものの中で、できることを見つけ、選び、努力し、生きていく。それを見た。それは美しい。と私は思った。