シンデレラはどこへ行ったのか

シンデレラはどこへ行ったのか

162 廣野由美子 岩波新書

副題は「少女小説と『ジェイン・エア』」。これも旅のお供の本の一冊であった。友人のブログに紹介されていた本。マダム、教えてくれてありがとう。

「シンデレラ・コンプレックス」。いつか王子さまが助けに来てくれるという発想。たとえ女性が法的、社会的に解放され、男女平等が唱えられても、女性自身の内面に自立を阻む内的要因があるのではないかとアメリカのコレット・ダウリングが指摘した概念である。自由や自立は他者からー社会や男性からーもぎ取るのではなく、内面から苦心して育てていくしかないものだという主張が根底にある。

私自身を振り返ってみると、シンデレラコンプレックスはなかったと思う。かっこいい王子さまが私を助けに来るわけがない、という確信があった。自由や自立は苦心して育てるしかない、という覚悟よりは諦念が、少女時代からあった。

この本の著者、廣野由美子は、シンデレラコンプレックスではない、もう一つのストーリーの定型によって多くの女性たちが内から駆り立てられているという事実を指摘する。それは、孤児もしくは孤児同然の恵まれない境遇に生まれ、美人でなくても自分の能力や人格的な強みによって道を切り開き、とりわけ学力によって頭角を現し、自己実現しながら自分と対等な男性と互いに認め合い、良き友人となるか、もしくは結婚し、その後もライフワークをもちながら生きる、という形のストーリーである。この少女の試練の物語から生きる力を汲み上げて生きてきた女性が少なくない、という指摘に、おお、その通り、と頷くしかない私である。

シャーロット・ブロンテの「ジェイン・エア」から話は始まる。不遇な幼少期を送る貧相な容貌のヒロインが保護者と対立、報復、脱出を図り、勉学に励んで人間関係を形成し、対等なパートナーを得る物語は、それまでにはない新しいスタイルであった。ここから影響を受け、生み出されたのがオルコットの「若草物語」、ポーターの「リンバロストの乙女」、ウェブスターの「あしながおじさん」、そしてモンゴメリの「赤毛のアン」、ルーマー・ゴッデンの「木曜日の子どもたち」であるという。

少女が試練を超えて自分の世界を切り開くという物語は子どものころから女性たちに大きな影響を与え、根強いシンデレラ・コンプレックスから脱却するための助けとなる。これを著者は「ジェイン・エア・シンドローム」と名付ける。確かに、私自身、子ども時代に、ここに挙げられた物語の多くを何度も読んできた。さらに付け足すのなら「長くつ下のピッピ」もこの系列に含まれると私は思う。大人たちの抑圧や要求を跳ね返して、友達を支えに自分一人の力で堂々と生きるピッピもまた、ジェイン・エアの仲間である。それらの物語にどれだけ救われ、励まされてきたか。本書を読んで改めて気が付く私である。本書の締めくくりの文に、深く深く頷く私であった。

一般に、子どもは驚くほど文学を理解する能力を持っている。また、大人は、子どものときに読んだ文学を再読すれば、新たな発見をすることができる。物語には、幼いころから持続的に人の一生に作用する豊かな、そして大きな力が秘められているのである。
(引用は「シンデレラはどこへ行ったのか」より)