話の終わり

話の終わり

171 リディア・デイヴィス 白水社

同じ作者の「サミュエル・ジョンソンが怒っている」を読んで、なんだこれは、と思った。この作品も同じく信頼の岸本佐知子の翻訳。そして、これも、「サミュエル」と同じような感想が残る。訳が分かんないのに、読んでしまう。読みながら、いろんなことを考える。考えていることが、いったい小説の中身なのか、それとも自分自身のことなのか、時々分からなくなってくる。悩んでいたり、怒っていたり、戸惑っているのが小説の主人公なのか、私自身なのか、だんだん混乱する…というか、混然一体となってしまうような。

大学教師が、12歳も下の学生と恋仲になる。初めはとてもうまくいっていて、相手は間違いなく自分を愛してくれているのに、だんだんそれが怪しくなっていく。そして、別れが来る。だが、この小説は、それを単純に描くわけではない。主人公は、別れてから長い月日が経った後に、その恋と別れについてできるだけ正確に小説化しようとする。だが、書くうちにだんだん記憶が混乱してくる。事実があいまいになり、また何を書いたらいいのかを自問自答し続けることになる。その時の自分自身の心も今思い返すとこうだったのではないかと記憶すらも変化してしまう。小説を書いている今現実の生活の描写もその間に挟まれていく。描いている小説の中では、年若い彼との別れをどうしても許容できず、追いかけ、何度もすがり、探し、あきらめた後に今度は彼の方から手紙が来たりして、心は混乱し続ける。現実には、いまのパートナーの年老いた父親のデイサービスに頭を悩ませたりもしている。何を書くべきかを彼と相談したりもする。そのごちゃごちゃが妙にリアルで、それによって返って引き込まれ、まるで自分ごとのように感じられてしまう不思議な物語である。

それにしても。中年になってからの年若い男との恋はしんどいなあと思う。彼がもう自分を見ていないと知ったとたんに自分自身の実態が崩れていくような感覚があったり、どうしても物が食べられなくなったり、自分が変わりさえすれば、また彼との関係が戻ってくると勝手に妄想してそれに心が明るくなり、そしてそれが間違いだとわかる・・・。もうそんなことはたくさんだな、と、読んでいる熟年の私は思う。恋なんて、楽しいことよりも、苦しかったり混乱することのほうが多いじゃないか、と若い頃に思ったことを思い出す。まあ、それでもやめられないものだということも知っているけれど。…というような記憶がよみがえってしまうほどには、細かな部分、些細な部分にリアリティというか、他人事ではない感覚のある小説であった。