サミュエル・ジョンソンが怒っている

サミュエル・ジョンソンが怒っている

153 リディア・デイヴィス 作品社

新聞だったか、書評誌だったか忘れたが、ただ「岸本佐知子が翻訳したというだけで信頼できる」というような情報を得て、すぐにこの本を読むことを決めた。私も、岸本佐知子の翻訳ならそれだけで信頼していいと思うからだ。で、それ以上、何の情報もないままにこの本を入手し、読み始めて驚いた。どうやら短編集らしいのだが、そこに載っているのは、小説なのかどうかもわからないような短文であったり、非常に実験的な文章表現であったり。中学生の夏休みに、生まれて初めて芥川龍之介の「侏儒の言葉」を読んだときのことをふと思い出したりもした。なんだこれ、と思いながら、読み進めるにつれどんどん面白くなり、読み終えるのがもったいないほどであった。

信頼する翻訳家、岸本佐知子のあとがきによると、こうである。

例えば問いの部分が空白で答えだけが並んでいるQ&Aがある。しゃっくりのためにたびたび中断される口述筆記がある。ひどい悪文だけで書かれた偉人伝がある。淡々と繰り広げられる夫婦漫才がある。つぶやきや、詩や、寓話や、新聞記事の見出しのような断片がある。かと思うと身辺雑記ふうのエッセイや、回想録や、古い時代の旅行記がある。 (引用は「サミュエル・ジョンソンが怒っている」より)

実に自由である。だが、その根底に何かとても興味深い、面白い、人を惹きつけるものがある。やたらと頭でっかちな文章かと思うと、妙に素朴な表現が登場したりもする。そして、読みながら、私は子ども時代に戻ったような感覚に陥る。あのころ、私は「どうしてこうなんだろう」といつも考えていた。

家族と話し合うと、なんでいつもこうなるのか。なぜ、何も通じないばかりか、全然違う着地点に向かってしまうのか。永遠に質問に答えが出ないのはなぜなのか。こうなるはずなのに、ああなるのはなぜなのか。私の理屈では、こういう道筋があって、こっちの方向に進むはずの出来事が、どんどん違う展開になっていく。それはなぜなのか。

話し合いながら、私の頭の中は忙しく、もはや現実の会話よりも頭の中の思考のほうがぐるぐると蠢いていく。現実は変わらない、むしろひどい。だのに、頭の中の論理はどんどん突き進み、広がり続け、さらに現実と乖離していく。

そんなあのころの感覚が、なぜか急によみがえる。頭の中にいろいろなことが浮かんでは消え、目の前の出来事とは別の世界が広がりながら、でも、現実は厳然としてここにある。

不思議な本であった。でも、とても共感する。そして、何か救われたような気持にすら、なる。それがなぜなのか、私自身にもよくわからないのだが。読んでよかった一冊である。