街場の米中論

街場の米中論

14 内田樹 東洋経済新聞社

毎回思うことだが、内田樹の文章は明解である。難しいことでも、実に分かりやすく書かれている。これは、彼の頭の中で、物事が十分に咀嚼され理解されているということなのだと思う。人に分かりやすく説明できて、初めてそれを理解していると言えるものだ。と、彼の本を読むたびに思う。

この本は、彼の主催する凱風館寺子屋で行われた「アメリカと中国」がテーマのゼミにおける彼の発言を文字起こしして加筆したものである。ゼミ自体は、ゼミ生の発表をもとに、そういえば、今の話を聞いてふと思いついたこと、思い出したことを内田氏がコメントし、その後、ディスカッションが行われる。つまり、発表の主題をはなれてあらぬ方向へ話が転がることもままある。「そういえば」がきっかけになって自分の記憶のアーカイブを点検するという作業が始まることの重要性を彼は指摘する。

もしかしたらこの本の本題とはあまり関係ないかもしれないこの前書きに、私は既にぞくぞくする。人と話をしたり、本を読むとはそういうことだと私は思うからだ。一冊の本を読み、次の一冊を読んだときに「おや?」と思うことがたまにある。「この本と前に読んだ本はつながっている。この部分で同じことを伝えようとしているし、この部分で前の本を補強し、補足している」あるいは「前の本への反論としてこの本がある」など。それは、本当にその二つの本が互いを意識して書かれたものである場合はほとんどなく、ただ、私の頭の中に作られた記憶の塊の中で、様々な要素が絡み合って二冊の本のかかわりが作り出されているわけなのだが。記憶にも残らない広大なアーカイブが「そういえば、ふと思い出したのだけれど」でつながっていく。それは、そのアーカイブが多人数のものであればあるだけ、より大きな広がりを持っていく。ゼミの意味はそこにあるのだろうし、また、多数の本を読むことも、そういうことなのだ。‥‥というようなことを最初に確認してから、この本が始まった。ああ、まえがきだけの解説をしてしまった私。

で、この本は、アメリカにはアメリカの趣向性があり、中国には中国の趣向性があること、それを見分けることで、なぜ彼らがそのような選択を行うのか、今後どんな選択を行うのか、を読み取ろうとするものである。それが正鵠を得ているのかどうかはこれからを見るしかないが、非常にわかりやすく説得力のある論だったことは間違いない。中国の中華思想・・宇宙の中心に中華皇帝がいて、「王化の光」がそこからあまねく四囲に広がっていくという宇宙観と、アメリカの建国理念「自由」と「平等」という食い合わせの悪い二つの概念。これらを歴史的背景から見直してみたときに見えてくるもの。根源的な姿勢というか、この本の言葉を借りるなら趣向性が国家戦略の根源にあると気付く。そこからわかることがたくさんある。目からうろこであった。

こういうゼミに参加してみたいなあ。思いついたことをガンガン話しても、疎ましがられたりうるさがられたりしないで、誤謬があればすぐに指摘され、興味があれば食いつく人がいて、反論も共感も同調も含めて大きな広がりが得られる。そんなゼミって、本当にいい。もうそんな会合に長いこと出ていないなあ、としみじみ溜め息をつく私であった。