作家との遭遇

2021年7月24日

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「作家との遭遇」沢木耕太郎 新潮社

 

やっと喉の痛みが収まってきた。風邪っぴきの数日間は、最低限の家事をこなすだけで、日中、何度もウトウトしてしまい、気がつけは日が暮れていた。退屈だとは思うのに、本が読めない、テレビも見れない。で、何をしていたかと言うと呆れたことに、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」の振り付けをYou Tubeでぼんやり眺めていたのである。古っ。というわけで、あのおにぎりダンスを、今なら踊れる。誰にも見せないけどね(笑)。
 
さて、「作家との遭遇」である。これは珍しく我が家の蔵書である。読書の基本を図書館本においてしまうと、貸し出し期限に追いかけられて、蔵書を読むのがどうしても後回しになる。買いたいほど好きな作家なのに、なかなか読めないというジレンマ。この本をかかえて何度も新幹線に乗ったというのに、二冊目の予備扱いされて、途中で止まったきりが何度も続いた。そんなわけで、読み切るのに半年くらいかかってしまった。といっても、以前に読んだことのある文章がほとんどだったと思う。多くは、他の作家の文庫本の後ろに掲載される解説として読んだような覚えがあった。
 
であるから、ぶつ切れの上に新鮮さもないという読書であったが、そこから立ち上がるのは、沢木耕太郎の作家論の対象となった作家への誠実さである。唯の解説であるのなら、いくつかのエピソードやちょっとした感想を書いてお茶を濁すこともできるだろうに、どこまでも深く作家の奥底に切り込んで、対決している。この姿勢こそが彼だよな、とうなずきながら読んだ。
 
最終章には彼の大学の卒論であるカミュ論が載せられていた。流石に大学生の筆だけあって、文も固く読みにくい部分もあったが、まぎれもなく沢木耕太郎らしい文章ではあった。あとがきで、手に入る全てのカミュの作品を集め、徹底的に読みこむという作業をしたと書いてある。彼にとって初めて「遭遇」した作家がカミュである、と。一人の作家を徹底的に読み込むという作業は、文学部生でもなかった私にはあまり経験がないのだが、それでも同じ作家をずっと読み続けるという経験がないわけではない。いくつもの作品を読み通したからこそ見えてくるもの、わかるものがある。そこで、その作家に初めて「遭遇」することができる、という事実は、私のようないい加減な読書家にも想像がつく。
 
沢木耕太郎は、その卒論を書いた後、ライターとなって生身の作家と新宿や銀座などの酒場で実際に遭遇することになる。だが、それ以外の場でも、作家に「遭遇」することとなった、という。それが、文庫の解説である、と。
 
 通常、文庫の解説には、その作家との交友のちょっとした思い出話や、サラッとした印象記のようなものが求められているということはわかっていた。しかし、私はそれをひとりの作家について学ぶためのチャンスと見なした。具体的には、あらためて全作品を読み直し、自分なりの「論」を立ててみようと思ったのだ。そのため、執筆する原稿の枚数も、通常の解説の域を超えるような長さをこちらから要求し、それを受け入れてくれるものにだけ書かせてもらうことにした。(中略)
 それを書き上げることには、毎回毎回、カミュについての卒論を書いていたときと同じような高揚感があった。もしかしたら、そうした解説を書くことで、常に私は「遭遇」した作家についての短い「卒論」を書いていたのかもしれない。
 
           (引用は「作家との遭遇」沢木耕太郎 より)
 
これこそが沢木耕太郎の書くことへの誠実であり、愛である。たとえ、そう書かれていなかったとしても、この作家論には、多くの作品を読み込まねばわからないもの、気づかないものが書かれている。作家への深い理解と考察なしには書けない文章であると読んでいてわかるのだ。改めて全作品を読み直し、自分なりの「論」を立てるという、この姿勢。この誠実。
 
だからこそ、沢木耕太郎という作家を、私は信頼する。
 

2020/1/10