サヨナラ、学校化社会

サヨナラ、学校化社会

2021年7月24日

「サヨナラ、学校化社会」 上野千鶴子 太郎次郎社

2002年の本です。それから8年も経っていて、状況はだいぶ変わっている・・というか、さらに深刻化しているなあ、と思いながら読みました。上野さんはズバズバの人ですから、そりゃ言いすぎだろう、というくらい誇張したり、決めつけたりする部分はあります。ありますが、そのとおりだなあ、と思う部分も多くて、うーむ、考えちゃいました。ここに、素直にすべての感想を書いていいんだろうか・・と、躊躇するようなことを、たくさん考えたんです。

上野さんは、京都の私大、本人たちがいうところの偏差値四流大学から、東京大学文学部へ1993年に移られました。その変化について行ける?という質問に「外国と思えば。」と答えたそうです。ちょっと、笑える。

上野さんが東大に赴任した年、自著の「家父長制と資本制」(出された当初に私も読んで、すごく面白かったのを覚えています)をタネ本に授業をしたところ、提出されたレポートを読んで、怒り心頭に達した、というエピソードから、この本は始まります。ほぼ全てのレポートが、授業の反復であり、要約であって、そのツボは外していないから不可にはできないが、オリジナルな意見、何らかのプラスアルファを付け加えるレポートは、ちらっとたまに有るか無いかだったそうです。夏休み明け、上野さんが「二度とこんなことするな」と怒りをぶちまけた授業は、今でも神話になっているとか。

そんなレポートしか出せない授業をしてしまった上野さんの側にも責はあるのかな、と思ったら、まあ、その後、彼女も、授業の方法をかなり変えたようではありますが。逆にいうと、変えないとならない状況になっていたってことですね。

教科書を決めてほしい、出席をとってほしい、と学生の側から言われて、教授陣が驚愕した話も載っています。学生気質は、明らかに変わっていますね。

どこまで関係有るか無いかわからないのですが、私はこの話の流れで、パルティオゼットの中のコミュニティの、とある議論を思い出しました。中学生が、問題を提起したのですが、公立中学校に、制服は必要かどうか、という議論です。驚いたことに、多くの中・高生は、制服は必要である、と答えていました。理由は、華美になって歯止めがきかない、経済格差が服装に現れてしまう、遊びと同じ格好では勉強に身が入らない、集団の一部である自覚を持つために、等々でした。

私は、制服はあってもいいけれど、ないことにもかなりの利点がある、と思っています。気候や行事や健康状態に合わせて自分で服装を選ぶのは、良い経験になりますし、成長期の子どもが、洗濯しやすく動きやすく汗を吸収しやすく、かつ安価な服を体に合わせて購入することに合理性を感じるからです。アトピーやアレルギーの子への対応も出来ます。今時、服はとても安価になっていて、制服を一揃い購入するくらいの値段で春夏秋冬すべての季節に対応した服を買ってもお釣りが来ます。制服を廃止して、一番困るのは、今まで、必ず売れるからと、競争も値引きもないままに、毎年一定の利益を上げてきた制服業者でしょう。

・・・と、話はずれてしまいますが、この議論の中で、華美になる、歯止めがきかない、と主張した学生さんたちに、その、華美になって歯止めがきかない主体は、自分なのか、それとも自分以外の人間なのか、と尋ねたら、返事が返ってきませんでした。制服を決めてもらわないと、服装において自分たちは暴走してしまうであろうと考える、それは、自分に自信がないのか、それとも、周囲の人間を信用できないのか。そのどちらなのかを、私はとても聞いてみたかったのですが。

それから、もうひとつ。とある大学受験生が、中学受験の保護者は、子供を教えられるわけがない、と日記で書いていたのも、思い出しました。彼の主張によると、親は欠点だらけで、完璧な存在ではない。けれど、物を教える「先生」というのは、完璧でなければならないから、というのです。しかし、私は今まで、完璧であると感じた教師には、一度も出会ったことがありません。この受験生は、完璧な教師に出会ったことがある幸福な学生だったのでしょうか。

その二つのことを思い出したのは、つまり、彼らは「正解」がほしいのだろうか、と思ったわけです。
学生として正しい服装としての制服。
勉強に、必ず用意されている完璧なる正解。
正しい解というものが、何事にも必ず存在していて、それを与えられることが勉強であり、するべきことなのである、という感覚。ちょっと間違ってしまったり、大勢と違う方向に走ってしまったり、右往左往しながら、正しそうな方向を探す、という道筋は、単なるムダであり、欠点は忌むべきものであり、目指すべきは完璧である、という姿勢、というか、信仰というか。

それが、以下のエピソードにもつながる、と思うのは、考えすぎでしょうか。授業でディスカッションをすると、シーンとしてしまうのは、四流私大も東大も同じだそうです。でも、タガが外れてくると、四流校では意外にいろんな意見が出る。

これまで偏差値の劣位者として自分の言うことに価値がないと思わされ、だれにも耳を傾けてもらえなかったのに、いまはクラス全員が自分の言うことを待っていてくれているという喜びとともに、堰を切ったように発言し始めます。
ところが、東大生はシーンが続くのです。なぜかというと、聴衆は教師の私ではなく、同輩集団がほんとうの聞き手で、その同輩集団のまえでへたなことを言って恥をかいてはいけないというプレッシャーに支配されているからです。無知なこととか恥ずかしいこと、かっこわるいことを、みんなのまえで言ってはいけない。いっぱしの口をきかなければいけないというプレッシャーです。〈中略)
同じプレッシャーを、私はアメリカのエリート校でも感じました。日本からの訪問者がよく、アメリカの大学ではすごくディスカッションがフリーでアクティブで、みんな思い思いの意見を表明してすごいね、など言いますがとんでもない。超エリート校はそんなことはありません。シーンとしています。ここでは自分の無知をさらしてはいけない、と脅えさせるような雰囲気があるのです。

(「サヨナラ、学校化社会」上野千鶴子 より引用)

フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、学校とはもともと階層差のある子どもたちを元の階層に再生産するための、ふるい分けの装置だ、と言っているそうです。そのからくりの中で、学校は、学校的価値を再生産してきました。宮台真司さんが、学校化社会という用語を使っていますが、それを、上野さんは「卓抜なネーミング」と認めています。

 偏差値一元尺度という学校的価値が、学校からあふれて外ににじみ出て、その結果、この一元尺度による偏差値身分制度とでもいうものが出現してきています。

こうした偏差値一元主義の学校的価値の中で育った子どもたちが、いま、世代を更新して親となっています。〈中略)
いまや家庭も地域も既に崩壊し、子どもを評価するものは偏差値しかありません。学校での出来がよい子どもは愛するし、できの悪い子どもは「こんな子は私の子どもじゃない」という条件つきの愛し方をする。
それ以前の時代は、学校的なできる・できないという価値観とは違う価値観が親のがわに比較的はっきりあったために、教師の言うことと親の言うことが違うのがあたりまえだったし、上級学校に進学する志向もいまほどは一元化されていませんでした。

このような価値観の一元化のもとでの優勝劣敗主義が、一方で敗者の不満、他方で勝者の不安という、負け組にも勝ち組にも大きなストレスを生むのだとしたら、このシステムのなかでは勝者になろうが敗者になろうが、だれもハッピーにはなっていません。
学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。
(「「サヨナラ、学校化社会」上野千鶴子 より引用)

ああ。長々引用してしまった。ぜいぜい。
こんなにムキになって書かなくてもいいんだろうな、とも思います。なんか引っかかるんでしょう、私の中で。こうやって引用してみると、言い尽くされたことしか書いてないみたいにも思えますが、それは、引用の限界ということで、実際には、分析はなかなか面白いです。

いろいろ考えたことの一部しか書けないのですが、結局、もっと自分を大事にして、自分が自分で満足できる、他者の評価ではない自分の納得出来る生き方を選ぶしか無いじゃないかという結論に、行き着くわけです。なんだか不自由そうな人が多くて、と言っている私も、実はいろんな不自由を自分で望んで背負っていたりもするのですが。
人生、ここまで来たら、伸び伸びしたいです。と、若い人達にも言いたい私。

2010/7/19