挑発する少女小説

挑発する少女小説

2022年2月5日

18 斎藤美奈子 河出書房新社

「小公女」「若草物語」「ハイジ」「赤毛のアン」「あしながおじさん」「秘密の花園」「大草原の小さな家」シリーズ「ふたりのロッテ」「長くつ下のピッピ」。これらの少女小説を新たな目で読みなおしたのが本書である。全部、読んだことがあったし、中には私の人生の支柱にすらなっているような大事な物語もいくつかある。それを大人の目で読みなおすという試み。非常に面白かったし、いや、実は最初から気づいてましたよ、という指摘もある。それにしても、これらの物語の持つ威力を、あらためて思い知る。今どきの子供がこれらの本を読まないのだとしたらもったいないなあ、と思わずにはいられない。

これら少女小説のお約束は四つ。
1.主人公はみんな「おてんば」な少女である。良い子育成のツールであるはずの読書において、主人公たちは「女はかくあるべし」というジェンダー規範を大なり小なり逸脱しているし、もっと言えば規格外ですらある。ここに見え隠れするのは作者と読者の共犯関係である。

2.主人公の多くは「みなしご」である。「女の子らしさ」を要求し、娘を家の中に閉じ込めたがる親は物語の障害であるため、作劇上の都合から親は排除された・・・かもしれない。

3.友情が恋愛を凌駕する世界である。主人公がおてんばである代わりに、親友や姉妹として女の子らしい女の子が登場しがちである。そしてそんな凡庸な女の子を主人公はあこがれ、愛してやまない。

4.少女期からの卒業が仕込まれている。概しておてんばな少女は徐々におとなしくなり、成長とともに個性が失われていく現象が見て取れる。が、保守的な結末にも意外な事情が隠されている場合もあるし、大いに誤読できる余地が残されている。

子ども時代、私は「長くつ下のピッピ」に夢中であった。親は読書という良い習慣を我が子につけさせることで「良い子」を育成しようというたくらみがあったのであろう。が、それは、大人の支配をすべてはねのけ、自分一人で何でもやってのけ、学校にも行かず、自活し、お金も力も持っていて、大人になることを断固として拒絶するとんでもない女の子物語であった。親はそんなこと気が付かなかったのだろうなあ、と笑える。私は学校が嫌いだったし、周囲に合わせるのが大嫌いな規格外の困った子であった。そのすべてを肯定し、すくってくれるこの物語が、どれだけ私を助け、幸せにしてくれたかわからない。

「あしながおじさん」も、一見、孤児がお金持ちと結婚するシンデレラストーリーのように見えるかもしれない。が、主人公ジュディはあしながおじさんの金銭的援助から自立すべく、奨学金を取得したりアルバイトに励む。そんなことはするな、というあしながおじさんの指示を頑として拒み、戦いを挑み、行動する。最後に、実はあしながおじさんその人だったお金持ちのジャービーとの恋を実らせて物語はハッピーエンドとなる。結婚ですべて終わりかい、自立はどうした!!という批判の向きもあるが、よく考えてみよう。もし、ジャービーをはねつけて一人で孤児の身の上から作家として身を立てていくジュディの姿を描いたとしたら、それはとてもかっこよくはあるが、もはや誰もまねのできないスーパーウーマンとなってしまうかもしれない。が、ジャービーとの恋を実らせつつ、自らの夢を実現させる彼女の選択は、実はきわめて現実的な賭けであった、と言われると確かに…。なぜなら、この物語の続編で、ジュディの親友サリーはジュディが育った過酷な環境の孤児院の改革に奮闘し、子供たちが幸せに過ごせる場所にするため頑張るのである。その背後には、常にジュディがいる。ジャービーとの結婚により、孤児院の理事という立場と潤沢な資金を手に入れ、幼いころからの夢だった、理想の孤児院を作る策を見出したジュディは、実は凄腕だったんじゃないか、とも思えてくる。誤読かも知らんが、それはそれでよい展開である。

少女小説は、実は良い子育成の物語などではない。その背後で少女たちに向かって、もっと主張しろ、自立せよ、行動せよ、と挑発し続けている、と斎藤美奈子は言う。確かにそうだと思う。私は、これら少女小説にどれだけ勇気づけられ、励まされ、自分らしくありたいと願ったか。それが今の私の人生に、少なからず影響を与えているのだな、と改めて気づかされる本であった

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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