薬指の標本

薬指の標本

35 小川洋子 新潮文庫

コペンハーゲンで転んでしまった。私がいけない。なぜ、旅先で私は転ぶのだろう。たぶん、己を失うからだ。知らない土地で、心が浮き上がりすぎて、バランスを崩すのだ。なんて言ってる場合じゃない。これから続く長い旅の行程をどうするんだ、と夫は青くなり、空港の車いすを借りるべきではないかと思案したらしい。痛む足首を氷で冷やしながら、私はこの本をひたすら読んでいた。

小川洋子の世界。サイダー工場での作業中、タンクとベルトコンベヤーの接続部分に指を挟まれて負傷してしまった「わたし」。怪我はそれほどひどくなく、左手の薬指の先の肉片がほんの僅か欠けただけだった。その事故をきっかけに「わたし」は標本作成所に転職する。そこで標本にできないものなんて何もない。昆虫、植物といったありふれたものだけでなく髪飾りや毛糸玉、化粧ケープやオペラグラス、ビーカーに入った精液ですら「もちろん大丈夫です、何の問題もありません」と受け止められる。そこで働く「わたし」が最後に標本にしてもらおうと思ったものは何だったのか。

もう一編収められているのは「六角形の小部屋」。スポーツクラブの更衣室で見かけたミドリさんという老婦人を追いかけて見つけた六角形の小部屋。それはカタリコベヤと呼ばれる場所で、人は、一人で中に入ってただ語る。それだけなのに、その小部屋に入ってみたい、語りたいとつい思うようになっていることに気づく。その部屋は、今、どこにあるのだろう・・・。

痛む足首をいっそのこと標本にしたいと思ったし、その気持ちをカタリコベヤで存分にしゃべりたい私であった。捻挫した時は、氷で冷やし、心臓より高い位置でしっかりと圧迫して固定する。転ぶ経験の多い私はそれを知っていた。二日間おとなしくしていたら、何とか歩けるようになった。やれやれ。