裸足で逃げる

裸足で逃げる

38 上間陽子 太田出版

「言葉を失ったあとで」の上間陽子である。この人の仕事はしっかり読まなければと思っていた。だが、これを読むのはつらかった。そんなに厚い本ではないのに、時間がかかったのは、途中で苦しくなって何度も読みやめたからだ。もちろん、ここに描かれているのは絶望だけではない。前を向く、自分の居場所を見つける少女たちの物語でもある。だけど、彼女たちに私は何の責任もないのか、と思わずにはいられなかったし、これは社会の問題であり、私たち一人一人の問題でもあると思った。というか、そんな綺麗な言葉ではまとめられない苛立ちや憤りや申し訳なさや罪悪感を感じずにはいられなかった。それは、私だったかもしれない、とも思った。

上間陽子は、沖縄で、10代から20代のキャバクラや風俗店で働いている女性たちの調査を行った。彼女たちのほとんどは10代で子供を産み、パートナーと別れた後、一人で子供を育てるために夜の仕事をしていた、慰謝料も、養育費ももらっていない人ばかりであった。

上間陽子が生まれ育った街は、彼女たちの地元であった。中学は荒れ、それを押さえるために抑圧的な校則指導が行われ、教師が殴ることもあったし、中学生たちは反抗した。中学時代、上間の友達のふたりはあるとき家出をし、翌日彼女の家に来た。ヤンキーの集団とお酒を飲み、煙草を吸い、一人がナンパされて車の中でセックスをしている間、もう一人は外で待っていたという。自分は何とか逃れたけれど、と言いながら、彼女はナンパされたもう一人をお風呂に入れてくれるように上間に頼んだ。彼女たちが家に帰れるように上間の母が自宅に電話したが、一人の子の親は、その子が昨夜、家にいなかったことすら気が付いていなかったという。そんな町から逃れるように上間は勉強をして、東京の大学に出た。だが、もう一度、その街に戻った。そして、沖縄の少女たちの調査と支援に取り組んでいる。

10代で子供を産んだ少女。家にいれば、兄に殴られ、それを逃れて恋人の家に転がり込むとまた殴られる。出産後、仕事をしない恋人を食べさせるために夜の仕事をし、喧嘩をして殴られる。実家に逃げれば母になじられ、兄が殴りに来る。恋人と別れると、恋人の母親が、息子を奪い取りに来る。ユタに聞いたらこの子はあんたのもとにいると不幸になるってさ、と。沖縄では仏壇の継承者の重要性が極めて高いので男の子は夫側の親族に奪い取られるケースが多い。新しい恋人もやっぱり殴る人である。もし、ひどい目に遭いそうになったらどうすればいいか、どこに連絡し、どこに逃げればいいかを上間は先んじて説明する。そして、案の定、彼女は逃げてくる。そして、今は子どもを一人で育てている。新しい仕事にも定着したらしい・・・。

殴る夫から逃れて、障害児の息子を一人抱えながら看護学校へ行き、看護師になった少女もいる。援助交際を強制する恋人と暮らした少女もいる。中学生で妊娠し、相手の男の母親に「うちの息子は俺の子じゃないと言っている」と言われ、親にもなじられ、産婦人科では、ここでは処置できないと言われて産んだ少女もいる。レイプされて、そのことを親も仲間も学校も警察も知っているのに不問にされ、お前が悪いとしか言われなかった少女。その後、様々な男と遊び歩くようになる。それは、あの時の恐怖を克服しようとする自衛的行動である、と上間は書く。本当に必要なのは、安全な場所でその恐怖を聞き取られ、自分の力を再現できるまで治癒の過程に伴走する人々の存在だったはずだ、と。

登場するケースはどれもこれも言葉を失うほど苦しい。なぜ、人は殴るのだろう。学校の教師が子どもたちを救おうとしていた事実も彼女は指摘している。だが、そんな教師もまた、子どもたちを指導のために殴っていた。愛情があるから殴るのだ、という論理に彼女たちがからめとられていく理由の一つはそれではないのか。事例のひとつに出ていた少女の今の恋人は彫り師である。それほどスキルがないうちから、沖縄では彫り師の仕事は繁盛した。基地の兵隊が次々と注文し、彫って欲しがるからだ。軍隊の中には暴力があり、いじめがある。だからこそ、彼らは自分を強そうに見せるために入れ墨を欲しがる。そこにも同じ構造がある。強い者が弱い者を蹂躙するのが当たり前の世界。その中に、私たちは生きている。

なぜこんな苦しい話ばかり私は読むのだろう、読みたいと思うのだろう、と自問自答しながら読んでいる。私自身も子ども時代に苦しい思いがあった。けれど、その当時はそれを苦しいと言語化することすら知らなかったし、それを苦しいと感じていいとも思わなかった。そういうことだ。彼女たちに比べて私の不幸はささやかなものだったのかもしれないけれど、それでも、それは私だったかもしれない、と思う。強い者の気分に翻弄され、気に食わないと叩きのめされ、びくびくとしながら日々を過ごす。それを、私は知らないわけではないのだ。だからこそ、こうした問題はよそ事ではなく、私の問題でもある。そのことからきっと私は逃げてはいけないのだと思う。

だから何ができる、お前は何をしているのだ、と問われるかもしれないが。私は知りたいし、この世が少しでもよきものになってほしいし、弱い者が支配され、抑圧されることに、ささやかであってもNOを言い続ける人間でありたいと願う。そして、つらい、苦しいと思いながら、こうした本をまた読むのだと思う。