のりたまと煙突

「のりたまと煙突」星野博美 文藝春秋

この人の本は、香港関係で何か読んだことがあるような気がする。橋口譲二氏の助手をやっていたという写真家でもあるひと。

なんでもっと早くこれを読まなかったのだろう、と思うほど、ぐいぐい読んだ。星野さんが大好きになった。

猫なんて積極的に嫌い、だったはずの彼女が、引っ越したアパートで、いきなり部屋に入り込んできた猫に「転落」してからの日々のおはなし。話題はいつも猫中心というわけではなく、いろいろな人を巻き込み、そして、世界の戦争やテロや天災もまた、日常に絡んでくる・・・。

私が星野さんを大好きだと思うのは、彼女が、情報を頭で処理して物事を判断しないところかもしれない。
香港やインドから帰ってきた時の違和感を描いた一文が、私は好きだ。
つまり、だ。周囲の会話や文字が、全部意味あるものとして、耳や目に入ってくる。意識しなくても、それらの情報を頭は受け取ろうとしてしまう。
どうせ分かってしまうのだから、積極的に日本の状況なんて知ろうとは思わない、という空港からの帰路、家につくまでに、もう、大体の情報が入ってしまう、そしてその事に彼女はぐったりする。

しかし、一方で、では、それはほんとうに知った、ということなのか、という疑問を彼女はずっと持ち続けている。のが、全文を通して、伝わってくる。
画像で見たから、その戦争を知っている、と感じてしまう自分。
反対に、まったく画像を見なかった戦争を、未だに知らない、と感じてしまう自分。
でも、では、どちらを本当に知っているのか、そもそも知っているのか、という問題を、さらりと彼女は書いている。

私も、上の息子を産んだころ、世界には大きな戦争があった。テレビは毎日のように戦場をショーアップしてみせたらしい。けれど、私は、その画像を、一度足りともみなかった。みたくなかった。そして、私は未だに、その戦争を、知らない、と感じている。
けれど、では、あれほどなんども見てしまった9・11の、何を私は知っているのか、と思う。その意味するところ、そこから何をすべきなのか、どこへ世界は向かっていくのか。何も分かっていないじゃないか、と思う。

星野博美は、経験から学ぶ人である、と私は思う。あくまでも自分の生活、自分の体感から出発し、しかし、そこに留まることなく、しっかりと世界の果てまでも、眼と耳を向けようという意思は持ち続けているように感じる。
足にまとわりつく猫をいとしむことと、世界はつながっている。
ファミレスで深夜にワインをすすりながら、社会の一部分をしっかり見つめている。
そういう、地に足の着いた、自分の目と耳とことばで生きていく意思を持っている、と私は感じた。

いいぞ、星野博美。

2010/11/5