おおきなかぶ、むずかしいアボカド

おおきなかぶ、むずかしいアボカド

2021年7月24日

220
「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ 2」
村上春樹 文 大橋歩 画 マガジンハウス

中学の図書室から借りてきた本。新着本をじゃんじゃん借りてきちゃう、わるーい図書ボランティアの私です。

村上春樹の小説は、なんだかあんまり好きになれない。というか、きっと、私にはわからないんだろうなあ、私が脳天気すぎて。だけど、エッセイは好きだ。村上さん、エッセイストになっちゃえばいいのに、なんて全国、全世界のハルキファンを敵にまわすようなことを密かに思っちゃうのである。

とりわけ、「三十歳を過ぎたやつら」というエッセイが私は好きで、好きな部分を抜き出してみようとしたら、あらら、全文になっちゃう。仕方ないから、すごく無理して、一部分だけにして引用する。

 僕らが二十歳だった頃にはきっと、自分たちが三十を過ぎたら、今の大人とはぜんぜん違う種類の大人になるんだと堅く信じていたのだと思う。そして世の中は確実に良くなっていくと思っていた。だってこれほど意識の高い、理想に燃える我々が大人になるんだから、世界が悪くなるわけはないだろう。悪いのは今そこにいる大人なのだ。やがて戦争は消え、貧富の差も縮まり、人種差別もなくなるだろう。真剣にそう考えていた。ジョン・レノンも(おそらく)真剣にそう考えていた。チェ・ゲバラも(おそらく)真剣にそう考えていた。
しかしもちろん、実際にはユートピアはもたらされなかった。戦争も貧困も人種差別もなくならなかったし、僕らはやがて三十歳を超え、その多方は昔ながらの退屈でぱっとしない大人になった。「馬鹿みたい」とあなたは思うかもしれない。今になってみれば僕もそう思う。馬鹿みたいだ。でも自分がその時代、その場所にいるときには、ぜんぜん馬鹿みたいじゃなかった。それはずいぶんわくわくするものだった。ビートルズは「愛こそはすべて」と歌いあげ、トランペットは朗々と吹き鳴らされていた。

こんな文章に、頷いてしまうのは、私が大人になっちゃったからだろうなあ、と思う。だけど、同時に、こんな文章に、私は胸を熱くする。

 人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。
小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものだということを、それらは教えてくれる。
僕の書く文章がこの世界のどこかで、それと同じような役目を果たしてくれているといいんだけどと思います。心からそう思う。

ああ、やっぱりこの人に、エッセイストになってくれなんて言っちゃいけあいんだわ、と私は反省しました。もちろん、私がそんなことを村上さんに言える機械もなければ立場でもなければ、言ったところで聞かれるわけもないのだけれどね。
(引用は「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」村上春樹より)

2012/3/16