ひみつの王国

ひみつの王国

2021年7月24日

138

「ひみつの王国 評伝 石井桃子」 尾崎真理子 新潮社

11月中旬に、杉並区で「杉並区名誉区民・石井桃子さんの足跡を辿る」という講座が開かれた。講座は二回行われ、一回目は映像作家森英男氏による映像上映と講義、二回目は石井桃子が開いた「かつら文庫」の見学、説明であった。

私は、この講座に参加して初めて石井桃子が宮城県で開墾に携わり、農業、酪農に従事していたことを知った。広い交友関係についても改めて知った。

子ども時代に本を読んでいた人なら、誰もが「石井桃子」という名を見たことがあるはずだ。児童文学の定番といわれるような作品の大半には石井桃子という名前が載っていた。気が遠くなるほどの冊数の本に関わっていたというだけで、すごい人だと思っていたのに、彼女の仕事は私の想像をはるかに超える広く大きなものだった。

講座に参加した直後にやっと図書館で「ひみつの王国」の順番が回ってきた。講座で聞いたことが、より深く詳しくここには書かれていて、石井桃子という人の偉大さを改めて思い知らされた。

百年生きるとは、とんでもなくすごいことである。石井桃子は、歴史そのものである。菊池寛、犬養毅、西園寺公一、山本有三、中野好夫、野上弥生子、井伏鱒二、太宰治、吉野源三郎、村岡花子、バージニア・リー・バートン、瀬田貞二・・・。歴史上の人物としか思えないような人と関わりあい、影響し合い、つい最近まで、生きて、書いて、活動していたのだ。

この評伝は、新聞記者である筆者が2002年、当時95歳であった石井桃子にのべ五日間にわたって行ったインタビューを根底として、残された文献、手紙類、関係者の証言などを調査参照し、丁寧に書かれたものである。個人的なことはあまり語りたがらなかった石井桃子の生涯の全貌をかなりの部分で明らかにすることができている。筆者の調査が深入りし過ぎだとご本人からお叱りを受けたこともあるようだ。欲を言えば、話があちこちに飛び、文章がややわかりにくい部分があったのが難点だが、貴重な資料であることは間違いない。よく石井桃子という人の記録を残してくれたものだと感謝したい。

印象に残った石井桃子の言葉を引用する。

 私がいままで物を書いてきた動機は、じつにおどろくほどかんたん、素朴である。私は、何度も何度も心の中にくり返され、消えなくなったものを書いた。面白くて何度も何度も読んで、人にも聞かせて、いっしょに喜んだものをほん訳した。
 それが、偶然、たいてい子どもに関係ある本だったのは、私が、「女、子供」のうちの女であったことにも一つの理由があるかもしれない。私は、子どもというものを、いちどもばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもった仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。   

石井桃子は生涯結婚しなかったし、子どもももたなかった。彼女が子どもが好きだったかと問われると、そういうわけではない、と周囲の人間は証言する。

児童文学研究者の猪熊葉子は、イギリスの研究者ピーター・ホリンデールの言葉を引きながら、「児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて』の中で非常に興味深いことを述べている。それは、大人になっても「子ども性」が強く生き残っている作家らは、そのサバイバルしている子供性なるものが、常に、物語を要求するという指摘である。そうした作家は〈あくまでも自分の内部にいる子どものために書いているのであって、外側にいる子ども読者のために書いてはいない〉。このように考えてみることは、児童文学というものの「文学」としての特質を解明するために、有益な考え方ではないかと猪熊は述べている。
〈自分自身の深い深いところに存在していながら、外に出て来られなかったそういう子どもの部分を表現するために書いている〉・・・猪熊の『最終講義』の単行本を読んだ石井桃子から、深い共感を示した便りが二度も届いたと、出版社の末盛千枝子から聞いた。
     
         (引用はすべて「ひみつの王国」尾崎真理子 より)

石井桃子は、ただ子どものように好奇心の赴くままに生きて書いたというエリナー・ファージョンの物語や自伝の翻訳、研究に取り組んだ。そして、その頃から、評論や分析をやめているという。その部分を読みながら、私は小学校の高学年の頃にファージョンに出会い、夢中になって読み漁った日々のことを懐かしく思い出していた。

ところで、講座の二回目に見学したかつら文庫は、素晴らしい場所であった。石井桃子の書斎がそのまま残されている。翻訳した書籍には、大量の付箋が貼られ、赤字が書き加えられ、亡くなるまでずっと時代にあった表現にと改訳に改訳を重ねていたことが見て取れる。本書にも載っていたものを始めとしてたくさんの写真のアルバムも惜しげも無く公開され、実際に手にとって見ることができる。貴重な書籍、資料は手をきちんと洗いさえすれば、好きなだけ手にとって読ませてもらえる。もちろん、一階の文庫部分には良質の児童書が並び、子どもたちがくつろいで心ゆくまで本を楽しめる環境が整っている。

当日はかつら文庫のスタッフや映像作家の森英男氏がつききりで丁寧に説明をしてくださった。火曜と木曜の午後には、予約を入れれば大人はいつでも見学ができるという。(子どもの利用は、原則として地域の子どもたちに限定されているようだ)「ひみつの王国」を読んで感動した人は、ぜひ一度訪れる価値がある場所である。
2014/12/1