脳が壊れた

脳が壊れた

2021年7月24日

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「脳が壊れた」鈴木大介 新潮新書

 

夫の購入本。面白かったと言うので読んでみたら、ものすごくいろんなことを考えるきっかけになった。
 
作者はルポライター。社会的に発言の機会を与えられない弱者を取材して、彼らの声なき声を代弁するのが一貫したテーマだという。そんな彼が41歳で突然脳梗塞に襲われた。命はとりとめたが、軽い身体的後遺症とともに、幾つかの高次脳機能障害が残った。高次脳機能障害とは、例えば記憶障害、注意障害、認知障害など一連の神経心理学的障害であり、一見健康そうに見えながら、本人にしかわからない、あるいは本人すら病識がない、わかりづらい障害である。
 
自らの障害の困難に気づくとともに、彼はその困難の中に、今まで取材対象としてきた人たちと共通するものを感じ、それが想像以上につらく大変なものであることに気づいた。
 
例えば、彼の襲われた「半側空間無視」症状は、自分の左側の世界を「見えていても」無視したり、注意力を持続できない。そのため、真っすぐ歩いているつもりでも、進路は右に旋回し、左腕があらゆる壁にぶつかる。会話をしている相手が正面にいても、右方面に顔を逸らせて、右上方を凝視する形でしか対面できない。挙動不審だとわかっていても、それをどうしてもやめることができない。・・そこで彼は気づく。同じような態度でしか人と対面できない不良少年をかつて取材したことを。彼は極端な挙動不審で、そのせいで子供の頃から周囲にいじられていたという。だが、どうしてもそれをやめられない。自身がなってみると、これはとてつもなくつらいことであると初めてわかったという。
 
また、すれ違う人をどうしても凝視してしまうという症状もあった。これは明らかに見知らぬ人にメンチを切り続ける結果となる。けんかを売っているか、変質者と思われるほかはない。だが、やめられないのだ。
 
これ以外にも、感情が爆走してしまう感情失禁(ときに号泣を伴い、感情をコントロールできなくなる)で周囲を戸惑わせたり、意識を集中させようとすると猛烈な睡魔に襲われてしまったり、小銭が数えられなくなったり。これらに関しても、取材対象者がいきなり感情的になったり、大事なことを説明していると眠られてしまったり、コンビニのレジでいつまでも小銭を探し続けて、最後に怒りに任せて紙幣を叩きつけて飛び出すような場面に、彼は今まで出会ってきた。それは、これだったのか!と初めて気づいたのである。
 
そういう筆者自身はいわゆるワーカホリックで、一瞬たりとも暇な時間を作りたくない、という性格であったため、倒れるべくして倒れたのだ。彼の妻は知能指数が非常に高く、特に記憶力については突出したものがありながら、激しい注意欠陥、集中力のアンバランスがあり、「もったいないLD児」と呼ばれていたという。この妻が、病後の筆者のリハビリに多大なる貢献をし、大いなる支えとなっていく。
 
読み進めながら、私は私自身や私の周囲の人達のそれぞれの個性、性格について振り返らずにはいられなかった。思うに、人はそれぞれに様々な特性を持っていて、それが強いか弱いかだけのことなのだ。
 
一見しっかりしていそうに見えて、実は、大事なことがしょっちゅうすっぽ抜けてしまう私。整理が下手な私。待つのが苦手な私。論理的に危険はないと知っているし、それが馬鹿げた恐怖感だと知っていても絶対に抜けることのできない高所恐怖症。
 
興味のないことは絶対に覚えられない人間や、人の気持ちを想像するのが苦手な人、反省や謝罪が極端に苦手な人、どんなことでも3日で飽きてしまう人など、困った性格の人間は、周囲に何人もいる。誰にでも、そういうところが一つや二つはある。そんな弱点をみんなそれぞれに抱えながら、なんとか折り合いをつけて生きている。が、実はそれは互いに許しあったり譲歩し合ったりさり気なく支え合ったりしているからなのだ。私達もみんな、どこかいびつで、どこかおかしな、どこか壊れた、問題を抱えた存在なのであり、問題のない完璧な人間なんかじゃ全然ないのである。
 
高次脳機能障害の人の苦しみを本当に理解することは私にはできていないのだと思う。だとしても、自分の中にある、本当はなんとかしたいにも関わらずどうしようもできないもの・・・指摘され、批判され、治そうとはするが、気がつくとまたそうなってしまうような困った部分を認知することはできる。それが拡大され、増強され、どんなに努力しても逃れられないところまで膨れ上がったとき、どんなにつらいかを少しは想像できる気がする。
 
それを想像できることが、どこに、何につながるのかはまだよくわからないが、人を知ること、人を理解することに、少し広がりができるような気がする、そんな本であった。
 
 

2016/9/20