ストーリーテリング2

ストーリーテリング2

2021年7月24日

「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」  間崎ルリ子

・おはなしをおぼえる・語る

お話をおぼえるということは、元来は、これ以上簡単な行為はないと思えるほどのことなのです。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉

面白いと思って聞いたら、自然に心に残る、というのは、確かにそうだと思う。前述したように、講習で聞かせてもらった「したきりすずめ」を、私は家で娘に語って聞かせた。詳細まで同じであったとは思わないが、それでも、ある程度は、忠実に再現できたような気がしている。<あくまでも、気がしているだけ・・・だが。)そして、私の感じた面白さは、確かに娘にも伝わり、共に味わい、楽しむことが出来たのだ。

おはなしを聞く面白さを知った娘に、私は他のお話もせがまれ、では、と本書に載っていた「こすずめのぼうけん」を無謀にも覚えて語ってみようと試みた。一週間ほどの間に、何度も何度も読み、構成を頭の中で再現し、音読し、大体は覚えたな、と思ったところで、語ってみたのだが・・・これが、惨憺たる結果だった。

お話の骨格は昔から知っていたとはいえ、たった一度しか耳で聞いていない「したきりすずめ」に比べ、用意周到に準備したつもりの「こすずめのぼうけん」のなんと色あせていたこと!娘よりも、私のほうが、唖然としてしまった。

語られる話は語る人によって生かされ、その人の心と共に伝えられますから、きいた者にとっても生きたといえます。そして、おもしろく感じたから心に残り、その内容が、実際の自分の生活と深いつながりを持っていたから、あるいは反対に、全く別の世界の異質な体験であったから、深い印象を受け、どちらの場合も心の中に生き続けたのでしょう。(中略)
紙の上によこたわる文字は生きていませんから、読む私たち自身が、自らの手で生命を吹き込まなければなりません。もちろん、語りたいと思うからには、自分にとってその話が生きたからではありましょうが、その生命は語られたものほど強く、たくましく、すみからすみまで活力に満ちているとは限りません。

(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉

私は、たくさんの本を読み、感想をだらだらと書き綴ったりはしているが、しかし、それは、耳からお話を聞くほどに、心に鮮やかに残るものではない。今まで私はどれほどの活字を、紙の上から起き上がらせ、心に生き生きと写し出すことが出来たのだろう、と今更ながらに考え込んでしまう。

書かれていることがらを実態としてうけとめ、自分の心をそれに沿わせ、共に呼吸し、そこで行われることを自分の体験としてしまうこと。その体験が心に満ち溢れた時、人間はそれを人と分かち合わずにはいられないものですから、それを語る、ということになります。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉

おはなしを覚えるには、まず、そのおはなしの全てを自分自身が精神的に体験できるようになるまで、心を注いで何度も何度も読み、それを実際のこととして心の中で経験した上で、言葉で再現してみることである、という。

一字一句たがわずに、と思うよりは、本当にそのおはなしを自らのものにすることが、結果として語句に至る隅々まで再現することに繋がる、という道筋は、実際に試した結果、大失敗の経験と共に、実感として納得できるものである。

その物語を、生き生きと生きることが出来たら、登場するものたちの姿や声や風景が、自然と心の中に浮かび上がってくるし、言葉もまたもっともふさわしい形で表現できるように思う。しかし、それは、本当に大変な集中力と、熱意と、心の柔軟性が必要なことのように思われる。

そしてまた、それは、物語の登場人物やその世界、文化に対する敬意や、理解し受け入れようとする謙虚で素直な気持ち無しでは、成し遂げることができないことのようにも思える。・・・私に、出来るだろうか?

さて、実際にお話を語るに際しては、聞き取りやすい声で、腹式呼吸が望ましく、わざとらしい演技ではなく、内から自然につく表情を大切に、言葉を明瞭に発すること。これは、読み聞かせのときにも心がけていたことであるので、ある程度はわかるし、努力によって伸ばすことが出来る部分だと思っている。

間の取り方と速度は、自然な心の動きに沿って、また、歌や会話、擬音なども、おはなしの調和を妨げない程度に、それほど凝らずに読んでいけば良いと思う。「外から表情をくっつけない」という本書の表現が、まさに全てを言い表していると思う。

・お話の時間の設け方

おはなしを聞く楽しみを知った娘は、習い事の行き帰りのバスの中などで、お話を聞きたがる。退屈な車中を過ごすのに、小さな声で周囲に迷惑をかけさえしなければ、おはなしは、とても良い時間の過ごし方だと思う。

わが子やそれほど親しくない間柄の子どもたちにお話を語るには、図書館などで、前もって日時を決め、場所を設定し、日常のざわめきからある程度切り離された空間で、大体三十分間ほど、出来れば定期的に行うことが望ましいという。

私が、以前、読み聞かせを行っていた小学校では、毎週同じ曜日に、朝の十分間、教室の前に立っての活動を行っていた。教室は、授業を行うには良い空間であるが、絵本を読み聞かせるには、読み手と聞き手の距離が開きすぎていたし、読んでいる途中に、遅刻した子や、教師が遅れて入ってきたり、チャイム、放送などが入ると一気に緊張感が途切れた。子どもたちが望む望まないに関わらず、ルーティーンワークとして、読み聞かせがあったため、聞く気のない子も付き合わせなければならないというジレンマがあった。また、十分間という時間は、じっくり聞かせるのは短く、あっさり聞かせるには長い、かなり中途半端なものであったと思う。

今の転校先の学校では、図書室で、月に二回ほど、低学年を対象に、聞きたい子だけが聞きに来ると言う形でお話会を行っており、以前の学校よりは、聞き手と語り手の距離が近く、また、聞くつもりになっている子が集まると言う意味でも恵まれているように思う。ただ、休み時間に図書室の一角で行われるために、どうしても、ただ本を借りにきただけの、お話会に参加していない子のおしゃべりや動きに目や耳をとられがちな環境ではある。(椅子を丸く並べたり、敷物を敷くなどの工夫は行われている。)

ローソクをつけて、お話の時間への導入とするやり方が本書では薦められており、それはとても魅力的だが、学校でそれが可能だろうか?

また、どうしても廊下や、図書室のほかのざわめきが抑えられない状態で、本や絵のような、目を引くものなしに、おはなしだけで、子どもたちの気持ちをこちらにひきつけることが出来るだろうか?そこが、疑問であり、不安である。

お話の時間を担当する者は一度に一人がいいというのは、心と心を通わせ、信頼関係を作り上げるためにはとても大切なことだと思う。

また、大きい子の聞き手も大事にしたいという主張に、私も賛成だ。その時期に、耳から聞いて楽しむと言うことをしないと、もしかしたら、もう一生そんな機会を失ってしまうかもしれないと思う。また、文章ではとっつきにくい、読みにくい、または反対に小ばかにしてしまって読みそうも無いような昔から言い伝えられたおはなしの数々に、ここで出会っていてほしいと思うからだ。

・読書への導きとしてのストーリーテリング

本書では、子供たちがあまり本を読まなくなった理由をふたつに分けて分析している。ひとつは、読む時間がないという時間的な問題と、もうひとつは、もし時間が出来たとしても、読んで楽しむ能力が育っていないという問題である。

そして、きっかけを作ったり、活字に耐える忍耐力をつけさせようとしても、後者の問題を解決しない限り、子どもの読書推進は成功しない、と指摘している。

私は、子ども時代から本に埋もれるようにして育った。「長くつ下のピッピ」は私の親友であり続けたし、ファージョンの物語は私を違う世界に遊ばせてくれた。冒険物語でわくわくし、探偵物語で秘密を探り、歴史物語で時空を超えた。その経験は、今も私に根付き、深いところで私をしっかりと支えてくれている。子ども時代の読書が、その後の人生にどれだけ力を与えてくれるか、私はよく知っている。

が、その一方で、「読書好きの子どもにしたい」という声に、首をかしげることも多々もあった。読書を積む事で、読解力がつき、国語の成績が上がり、偏差値が上がる・・・という目論見や、読書は絶対によいことで、ゲームやテレビは悪いこと、という単純な決め付けに、疑問もまた、感じていたのだ。

ストーリーテリングの講習に参加して、活字を読むことから離れ、人から人へ、物語が生きた形で受け渡されることに、私は強い魅力を感じた。物語の持つ力が、ストレートな形で生きることに、感動した。であるから、反対に、本書の一番最後に、読書への導きとして、ストーリーテリングが位置づけられることに、少し驚いたし、軽い失望のようなものさえ感じた。

しかし、次の一説を読んで、なんだか納得できる気がした。

生きたことばを身にうけること乏しく育って、どうして死んだ活字を生きたことばに変えることが出来るでしょうか。私は本は本来的には、作者の生命がこめられて書かれたものではあるけれども、その生命は仮死状態で紙の上によこたわっているというように思います。人工呼吸をほどこして息を吹きかえらせなければ、作者の生命は読者にとどきません。この人工呼吸をほどこすすべを知らないところに、最近の子どもが本を読めなくなった最大の原因があるように思います。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用)

活字で読んでもあまり楽しめないお話が、語られることですばらしい魅力を持って立ち上がることを、私は実感として感じた。活字から、魅力ある語りに持っていくまでに、どれだけの深い心の動きが必要であるかも、わかってきた。

聞く側だった子どもたちが、物語の持つ力をストレートに受け取って、こんどは、自分自身で、それを見つけることが出来るようになるとしたら。そのために、活字という媒介を経ることが、読書活動なのであるとしたら。

読書をするのは賢いいい子、成績のいい子、国語力のある子、と言う大人の下心に惑わされて、変な反発を感じたりすることはない。子供が、自分の力で物語を楽しむ方法を、教えてやるのは、大事なことなのだ。

当たり前のことなのだけれど、私には、それが発見でもあった。

2009/7/3