パパと怒り鬼

パパと怒り鬼

2021年7月24日

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「パパと怒り鬼」 グロー・ダーレ 作 スヴァイン・ニーフーズ 絵

書評を見ただけの段階で、私が無責任にも、おはなしでてこいさんに推薦し、感想をもらってから読んだ本。おはなしでてこいさん、ありがとうございました。

おはなしでてこいさんが言われたとおり、私も、この本を吟味せずにこどもに与えることには、躊躇する。数々の書評がこれを絶賛し、ネット上でも褒め称えられているが、私はそうやって手放しでほめることができない。

父親のDVに怯える子どもが、勇気を出してそのことを王さまに手紙で訴えた結果、父親はDVを抜け出すための場所を与えられ、家族には平和が戻る、という内容。

DVに晒された子どもは、自分が悪い子だからいけないんだ、と思いがちだが、そうではない、とこの本は教えたかったのだろう。それから、暴力を振るう父親自体も、また、決して悪いわけではなく、父親の中に潜む怒り鬼が暴れているだけであって、それを追い出すすべを見つけよう、ということなのだろう。それは、わかる。わかるけれど。

この本に出てくる子どもは極めて抽象的に物事を捉えているし、父親の暴力も、部屋の壁を通してしか聞くことはない。母親は肉体的にはどこも傷ついていなくて、怪我をしているのは父親の手だけ。母親はそれに包帯を巻いてやっている。そこには、生々しい現実は全く描かれていない。

正直に言ってしまえば、DVを振るう大人を、私は許さない。どんなに事情があっても、どんなにつらい過去があって、虐待が連鎖して、その人自身が傷ついていようとも、子どもを傷つける大人を、大人として許せない。その人が悪いんじゃない、心のなかに潜む鬼が悪いんだ、と言われても、その鬼を追い出さないお前が悪いじゃないか、と思う。思いながら、それは私自身にも戻ってくる。私だって、イライラして、子どもに当たったことはある。かっとして、子どもに手を上げたことが一度もないなんて言えない。だけど、そういう私を、私は許せない。そういう私を、私は断罪したいと願う。子どもを不幸にする権利なんて、どんな親にもない。

ある場所に住んでいるとき、階下で時々、騒ぎが起こった。夫婦が怒鳴り合い、物が飛び交い、悲鳴が聞こえた。その家には、おちびより少し年下の男の子がいて、彼の泣き声が聞こえることもあった。昼間なら庭に出て、騒ぎが収まるのを待っている彼の姿を見たこともあった。あれこれ考えたりやってみたりした挙句に、私は思い切って学校の管理職に事情を説明し、児童相談所や民生委員とも連絡をとってもらった。それから程なく我が家は引っ越してしまったので、その後、その家がどうなったかは知らない。けれど、時々思い出しては、心配になる。

あの家の子にとって、たまに家族の中に嵐が吹き荒れるのは日常だった。それは怖くつらいことではあったけれど、彼にとっては、家族とはそういうものであり、生きるとはそういうものなのかもしれなかった。だって、それ以外を知らないんだもの。

彼がこの絵本を読んだとして、それが自分の家と同じ状況を描いていると認識できるだろうか?時々機嫌の悪いお父さんがいて、部屋に追いやられる。そして、お父さんは手に怪我をして、お母さんは泣いている。だから、王さまに言ったら、助けてくれた。それって、なに?それを知って、どんな勇気が出る?

最初から、この絵本は父親を許している。悪いのはパパじゃない。そして、子どもが勇気を出して王さまに訴えさえすれば、きっとパパだってママだって、子どもだって助けられるのだ・・・。

ここに描かれているのは、底知れないような心の奥の恐ろしさ、寂しさ、孤独感。けれど、子どもがそれをそれとして認知できるような表現だろうか?DVにさらされている子どもがこれを読んで、本当に何かを得ることができるのか?

この絵本は大人のものだと私は思う。夫や、あるいは妻の暴力に悩む大人にとっては意味あるものかもしれない。けれど、いま現在、親の暴力にさらされ苦しんでいる子どもがこれを読んで、どうなるのだ?と思う。それが、彼や彼女を助ける、とは私には思えない。大人の助けなしに、これを読んだとしたら、もしかしたら、もっと辛く苦しい思いをするだけかもしれない。だって、現実は、こんなものでは絶対にないのだから。

2011/11/9