北朝鮮で考えたこと

2021年7月24日

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  「北朝鮮で考えたこと」 テッサ・モーリス・スズキ 集英社

全くもって余談から始めると、この著者の夫は日本人の博打打ちである。夫のいい加減さ、無責任さに比べて、この人はなんと誠実で生真面目なのだろうと感嘆してしまう。まあ、そういうことって、あるわよねえ、と笑ってしまうのだ。・・・というのは、置いておいて。

前回に読んだ「北朝鮮 行ってみたらこうなった。」に引き続いて北朝鮮本である。たまたまなんだが、こんな風に本に「呼ばれる」ことってあるものだ。この著者は、1910年に北朝鮮を旅したイギリス人旅行者E・Jケンプの紀行文を元に、2009年、ケンプとできるだけ同じ旅程を歩こうと試みた。その結果、「北朝鮮 行ってみたらこうなった。」の、のなかさんと同じように、金剛山や板門店も訪れている。

であるから、読んでいる私は、とても不思議な体験ができる。1910年の、ケンプが見た古き美しき北朝鮮を邂逅しながら、真面目な近代史学者テッサの見る、ごく最近の北朝鮮の解説を聞きつつ、脳天気な日本の若いお嬢さんの見た、同じ場所へのはしゃいだ感想も思い起こすことができる、というわけだ。同じ場所でありながら、時代と、見る目が違うと、まったく違うものが見えてくる。

北朝鮮は、本来、豊かな自然を持つ美しい国だ。エネルギー政策の失敗から、山は裸に剥き出されてしまっているが(みんな燃料のため、木々を切り倒してしまうらしい)、かつては美しい緑のあふれた場所だったことが、ケンプの旅から見えてくる。日本がこの国で何をしてきたかについても、テッサはしごく冷静に見据えている。感情的に批判するわけでもなく、その功績と罪状とを客観的に(多少、日本よりの目で・・)見極めているように感じる。

テッサは、のなかさんのようには脳天気になれない。彼女は、この国の将来について、結局、展望が見えない、というにとどめている。こんな風にだ。

境界線は閉じたまま。北と南の間の緊張は高いまま。北朝鮮指導者は必要とみなすあらゆる手段を使って権力にしがみつく。韓国政府は朝鮮半島の未来についての壮大なビジョンを失い、北が勝手に崩壊するのを待つことで満足しているようだ。一方で中国は東の国境の終わりない不安定さに焦燥感をつのらせている。アメリカは地球の反対側で起きている危機に没頭している。日本は隣の”ならず者国家”に恐れをなしてたじろいでいる。そして、その他の世界は、最後のスターリン主義国家の奇怪なありさまを、冷笑的嫌悪感とともに見物をきめこんでいる。
 冷笑的な嫌悪感は無関心のいい口実であるー未来について真剣に考えること、あるいは、そこに内包される人間にとっての意味を案ずることの必要性にたいして効果的な防護策になる。援助が枯渇してゆき、境界線は閉まったまま、政権が危機の深みにますます陥っていくなかで、石を砕いている人たち、柿を栽培する人たち、侍中の漁師たちはどうなるのだろう。この人達は、大勢が内部崩壊したらどうなるのか。物質的氾濫のただなかにあるこの絶望的な貧困の泡を再統合するという難問を、北東アジアはどう克服するのだろうかーごく近い将来、必ず直面することになる難問なのに。

のなかさんの本は、フンフンと軽い気持ちで読んだ私だが、この本では、うーんと唸るしかできない。あの国は、どうなるのだろう。その時、日本はどうするのだろう。火の粉は、かかってくるのだろうか。そして、あの国にいる日本人を、どう取り戻すことができるのだろう。私にも、展望は、見えない。

(引用は「北朝鮮で考えたこと」 テッサ・モーリス・スズキ より)

2012/7/31