水辺にて

水辺にて

2021年7月24日

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「水辺にて」   梨木香歩  筑摩書房

これも、図書館に返す本はないかと夫に尋ねたら、渡された本。あんまり面白くなかった、返しといて、と。

梨木さんは最近、どこへ行っちゃうのかなあ・・・と思うような作品が多くて、だから、これも迷ったんだけど、なんとなく読み始めてみたら、あらら、これは私にヒットした。

水にまつわるエッセイ。カヌーに乗る話が多いのだけれど、舞台や題材は、それはもう、あっちこっち飛ぶ。でも、けっして突拍子もないわけではなく、彼女の中では、すべてがつながっている。

アーサー・ランサムの話から始まったからなあ。ウインダミア湖の語感がいい、なんて書かれたら、やっぱり読みたくなるよなあ。

梨木さんは不思議な人だ。日本中、世界中を歩いたことがあるみたい。どんな人なのか、実態はいつまでもつかめないのに、いろいろな場所で、カヌーに乗ったり、空手を学んだり、かと思うと鳥を眺めたり。歳は私とさほど変わらないと思われるけれど、いったいどんな半生を送ってきたのだろう。

 ユースホステルを渡り歩くという、若者らしい闊達と逞しさは私の今でも憧れるもので、当時も、私はほとんど自分自身に懇願するようにして、それができないものか(経済的にも本当に助かるのだ)何度も考えた。けれど、私の中の芯の部分で何かが悲しく首を振る。
一人の時空間がないとだめだ、どんなに狭く貧弱な部屋でも、個室でなければならなかった。お金がなくても、新しい土地ではとにかく安くて居心地のよさそうなB&Bを探した。ある意味では、脆弱な精神である。
私は私が自分に望むようなタフネスは、ついに身につけられなかった。

この部分を読んで、私はある友人を思い出した。彼女も、一人の時空間を必要とする人である。その切実さが、梨木さんに似ていると私は思った。なるほど、それは脆弱な精神であるといえるかもしれない。しかし、私のようなさびしがりの人間は、一人でいることを求める強さ、一人でいることで自分を立て直す方法を持っている者へ、ある種の憧れと敬意を感じてしまう。誰かといることで自分をごまかし、安心させてしまういい加減さを持ち合わせない人間の潔さを、むしろ手に入れたいと願うようなところがある。

亡くなった星野道夫さんが若いころ、物欲なんてないけれど、これだけはほしいと願っていたという高価なカヌー。なくなる前の彼の写真に、まさしくそのカヌーが、彼とともに写っていたのを見て、ああ、彼はこれを手に入れたんだ、と安堵し、それから少し悲しくなる。
ダム湖にカヌーで漕ぎ出し、水の下に沈んだ町の子供たちを眺め、話しかける。
北海道の川をカヌーで下りながら、ケネス・グレーアムの「たのしい川べ」を思い出す。
イラクで殺されてしまった青年のことを思い出す。
広い海のどこかで、たった一人で鳴いている鯨。
サンカノゴイというサギが「杭」になる一瞬を見る。

いろいろなことが、つながっているのだなあ、と思う。

 部分が全体を繋ぐこと。自分の生きている世界を、部分を、注意深く見つめること。自分がやがて還ってゆく世界を慈しむこと。
この、自分がそういう循環の一部であることをどれだけ心の深いレベルで納得できるか、ということがここしばらくの最大関心事の一つだった。循環してゆく森羅万象に、この意識も、還元されてゆく時がいつか来る。頭では分かることと、それが存在全体で納得できることは、大きな違いがある。何も恐れることはないのだ。それは諦めと同時に限りない安らぎになる。開放になる。必ず、そうなる。そういうことが理屈ではなく感得できる瞬間が、晴天から落ちてくる一片の雪びらのように、私を訪れるようになった。

梨木さんを駆り立てているものは、何だろう。何が、彼女をこんなに切実にさせているのだろう。彼女は、どこへ向かっているのだろう。

またしても、同じ疑問を感じながら、読み終えてしまった。だけど、ほかの本よりは、ずっと彼女の気持ちが分かったような気がした。すべてがどこかでつながっていて、部分を注意深く見つめることが、全体へとつながっていく、という感覚は、私もまた、同じように持ち続けているものであるから。

(引用はすべて「水辺にて」梨木香歩 より)

2012/1/31