アフター・ザ・レッド

アフター・ザ・レッド

2021年7月24日

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「アフター・ザ・レッド連合赤軍 兵士たちの40年朝山実 角川書店

 

子ども時代、浅間山荘事件が起きて、テレビがつけっぱなしになっていたのを覚えている。大きな鉄球みたいなのがボロボロになった家屋に叩きつけられている様子が映っていて、何が起きているのかよくわからなかった。革命を志した人達が集まって訓練しているうちに仲違いして殺しあった、という、なんだかなあ、な説明をその後で受けた。大人ってバカなことをやるんだな、と思ったのが当時の正直な感想である。
 
大学に入ったら、少し上の世代のOBの先輩たちは、自分たちは社会のために戦ったようなことを口走り、青春だったみたいなことを言っては遠い目をしてみせた。大学にはいろんなセクトの残党がまだいて、時々内輪もめもしていた。自分たちの楽しみだけ追っている我々「若いもん」は軟弱で、社会のために戦っている自分たちこそ正しいんだ、みたいなことをいう人がいて、ああそうなんだ、と思いながらもどこか釈然とせず、だけど、たしかに私は怠けているのかもしれないな~などとぼんやり反省する部分もあったりした。
 
学生運動ってものが全然わからなかったし、今もわからない。赤軍派もわからないし、あさま山荘事件も、未だによくわからない。社会のためというのなら、平和や人々の幸せを願うものだろうに、「軍」を名乗って銃を持ち、武力闘争をめざすというのがすでにわからない。
 
それでも、なにか正しいもの(正しいだろうと自分が思っているもの)に向かい、流れに巻き込まれ、気が付いたら困ったことなっていた・・・という経験は、私にだってなくはない。若い頃、同じような方向を向いた男女が一緒に活動していて、思いがけないエネルギーでバカなことをしてしまった、というだけなら覚えがある。銃を持って戦うんじゃなくて、夜中の海で花火を撒き散らしたり、着衣で泳いじゃったり、って・・・全然正しくもないし、くだらないけど、ああいうある種の高揚感が突っ走って行く感覚ならわかる。それが思わぬ方向に走って行ってしまったってことなのか、と、そんなふうにしか考えられない私は単純なんだろうな、とは思っていた。本当のところはどうなの、と思っていた。
 
赤軍にいた人たちの生き残りが、刑期を終えて普通の暮らしをしている。そういう人達へのインタビューがこの本だ。みんな、ほんとうに普通に暮らしている。たぶん、そこらで出会って知り合いになっても、全然違和感はないだろう。
 
当時の活動に対する今の立ち位置はそれぞれだけど、みんな、自分たちは悪くなかったと思っているみたいだ。一番残虐なことをやった人たちはみんな死んじゃったから、そうなのかもしれない。震災の時にボランティアをしたり、無農薬農法に目覚めたり、みんな「正しいこと、良いこと」を今でも目指しているんだな、と思う。ずっと自分はそうだったんだと今も思っているんだろう。傷つけたり殺したり、殺されるのを止められなかったりしたこともあったけれど、基本的な部分で、自分は正しいことを目指していた、というところはみんな揺るがないようだ。
 
そうなのか。
 
読み終えても、全然わからない。結局、分からない。
日常生活の中で、毎日を大事に生きる。個人として誠実に生きる。迷ったり困ったり苦しんだりもするけれど、楽しいことも嬉しいこともある。社会という大きなものを変革することに対して、そういう日々の暮らしや一人ひとりの生活、小さなことの積み重ねはどんな意味を持つのだろう。
 
何が正しいか、何を目指すのか、という事が重要なのはもちろんだけれど、正しいことへどう向かうか、そこへ到達するために、何をするのか、という方法論だってものすごく重要だ。少ない犠牲で多くの利を得るために、力づくで何かを押し曲げ、大きな流れに巻き込んでしまうやり方は、どんなことだって危ないし、怪しい。
 
どんなに面倒でも、丁寧に話し合い、一人ひとりがよく考え、選び、慎重に変えていく。小さな存在だって見過ごしたり踏み潰したりしない。そんなふうに変えていきたい、変わりたい、と私は思う。それは、甘いのか?物を知らないおばちゃんの戯言なのか?
 
結局、今の社会の偉い人たち、権力を持った人たちだって、根底では大して変わらんよな、なんて思ってしまう。いや、全然違ーう!って言われるだろうけれど。

2014/7/8