夜の谷を行く

夜の谷を行く

2021年7月24日

121

「夜の谷を行く」桐野夏生 文藝春秋

連合赤軍事件が元になっている小説。読み終えた時、「うわあ!」と思わず声を上げてしまい、それから、これは事実なのか?と気になってしまった。調べたら、あくまでもフィクションだそうだ。だからどうなんだと言われれば、それまでなんだが。

物語は元赤軍派リーダーであった永田洋子の獄中死のあたりから始まる。その後に、すぐに3.11の震災も起きる。かつて連合赤軍に参加し、途中で脱走し、逮捕され、数年間服役した経験を持つ女性が、永田洋子の死をきっかけに過去と向き合う話である。

その方法が正しいか間違っていたかはともかく、当時、連合赤軍派も含めて様々な学生運動に参加した人たちは、ある種の理想に向かおうとしてはいたのだろう。みんなが平等に幸せに暮らせる社会になるにはどうしたらいいだろう、と彼らは自分なりに真剣に考えていたはずだ。だが、それを実行しようとすると、「革命」集団にはヒエラルキーができ、リーダーは権力と化し、異議を申し立てるものは粛清されていく。「権力は絶対的に腐敗する傾向にある」と学生時代に憲法学の教授が繰り返し言っていたことを思い出す。スターリンもカストロも金正日も毛沢東もみんな同じだ。「ヤバい社会学」の中でも、虐げられた黒人層の中のリーダーは私利を貪り、あるいはギャングと化していた。どんな権力も、結局は同じ末路をたどる。人間は、いつまでも歴史に学ばない。

人は、そんなに美しくも正しくもない。理想的に生きるなんてことは誰にもできやしない。

この物語の主人公は、赤軍派に参加していたという過去を隠して、密やかにひとりで生きている。両親も亡くなり、たったひとりの肉親の妹と時々連絡を取るだけだ。だが、その妹の娘が結婚するにあたり、彼女の過去が様々な問題をもたらしていく。

永田洋子に出された判決の「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」という部分が物語には引用されている。過去にもこのフレーズを読んだ覚えはあるのだが、読み返してぎょっとするものがある。時代性もあるのかもしれないが、何だ、これは、と思わずにはいられない。執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な可逆趣味は女性特有なのか。もっとひどい男性の犯罪だっていくらでもあるではないか。それは、「人間特有」としかいいようのないものではないのか。

主人公は、自分が殺されるのが怖いばかりに、永田洋子に異議申し立てせず、仲間を見殺しにした。そして、もうひとりの女性と逃げ出した。崇高な理想のために身を投げだしたはずの人間が、権力に媚びて人を見殺しにし、自分だけが助かろうとする。権力が絶対的に腐敗するのも、支配されるものが怯え、逃げるのも、人間の常である。私はどちらも批判できるほど立派な人間ではない、と考えながらしか読めなかった。それは苦い苦いものであった。

物語は思いがけない終わり方をする。最後の数ページが衝撃的である。これがフィクションなのなら、桐野夏生は、こう終わらせたかったのか。そうか。人の救いは、こんな形でも、もたらせられるのか。

人が生きるということの意味を、彼女なりに提出したのが、このエンディングだったのだと思う。

2017/11/16