文庫解説ワンダーランド

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2021年7月24日

69

「文庫解説ワンダーランド」斎藤美奈子 岩波新書

相変わらず斎藤美奈子はキレがよろしい。名作を最後の部分だけを読んでいたと思ったら今度はそれよりさらに後ろにある文庫解説を読んでいる。いい目のつけどころだ。

「坊っちゃん」や「伊豆の踊子」「雪国」「走れメロス」の各種文庫解説を比較して、解説同士が密かにバトルを繰り広げていたことを教えてくれたり、最初っから解説をする気なんてない手抜きを暴いたり、かと思うと渡辺淳一の解説をさせられる女流作家はホステス並みのお上手を言っているかのように見せかけつつ「ナベジュンにセクハラされた」と告発していることを暴いてみたり。なかなかの鋭さである。

私がはっとしたのは「少年H」と「永遠の0」に関する章である。斎藤美奈子は、「火垂るの墓」の解説からまず「妹にもっとよくしてやれば良かった。自分も死ねばよかった。野坂はつまり、「こうありたかった少年像」を書いたのだ。」と読み取る。そこから次に「少年H」に移る。

Hは日米開戦に対し、〈大和魂だけで勝てるのか?アメリカは天まで聳えるビルがぎょうさん立っている国やで〉と考えるような少年である。(中略)
〈天皇陛下がもっと早く決断をくだしてくれていれば、原子爆弾の投下はなかったはずだし、それがもう五ヶ月早ければ、Hの家も焼けなかったはずだった。全国でいったい何軒焼け、何人の人が戦争で死んだり傷ついたりしたのだろう?Hは、天皇陛下に責任があると思った〉

 すごい洞察力!タイムマシンで戦後から来た少年みたい。

この「少年H」に対しては、絶賛の嵐の解説がつき、雑誌や新聞の書評の一部までが紹介されている。だが、この小説には史実の歪曲があると「間違いだらけの少年H」で山中恒が痛烈に批判したことを、斎藤美奈子は紹介する。そして

「少年H」の違和感は、戦後民主主義の価値観から、物語の中では現在進行形の戦争を批判していることに由来する。

と指摘する。そして、こう続ける。

「火垂るの墓」で野坂昭如は「こうありたかった少年像」を描いた。もしかして、妹尾河童も「こうありたかった少年像」を描いたのではないか。戦争の欺瞞を鋭く見抜き、母を雄々しく守り、敗戦の日に天皇の戦争責任に思いを致すような少年を。
 このような物語は読者に歓迎される。「日本人はみな本当はHのように戦争に反対したかったのだ」という気分を共有することで、庶民の戦争協力責任は免責されるからである。

ところで、私は最近、倉本聰のドラマ「やすらぎの郷」を興味深く毎日見ている。ドラマの中で、倉本聰は明らかに「永遠の0」批判を展開している。斎藤美奈子も、「少年H」に続いて、「永遠の0」に言及する。

戦闘機乗りとして並外れた技量を持ち、歴戦の勇者なのにいつも冷静沈着で紳士的。階級が下の相手にも敬語で話し部下には「ともかく生き延びることを第一に考えろ」といい、自分の夢は「行きて家族の元に帰ることです」と公言してはばからず、にも関わらず最後は年下の隊員の身代わりとなって特攻で戦士した男。

である主人公を、

元軍国少年から見て「こうあって欲しい軍人像」

であると指摘する。彼はいわば

戦後民主主義的な価値観を持った人物である

という点で、少年Hと同じなのである。どちらもあらまほしき少年、軍人を描いた一種の英雄譚であるために読者を獲得した、と捉えている。

私は「少年H」も「永遠の0」も感動を持って読み終えた記憶を持っている。だが、これらに対する山中恒や倉本聰の怒りに触れた時、「待てよ?」と思ったのだ。

私の父は予科練の飛行兵であったし、母は空襲を受けて疎開した学童であった。両親や、身近な大人たちから聞く限りにおいて、戦争中に現在のような戦後民主主義的発想を持った人間など、当時は皆無であったはずである。もちろん、一部の知識層の中には反戦論者もいたことだろう。たとえば、鶴見俊輔のように。だが、それは非常に限られた、ごく一部の、知識と情報と深い思考能力を持つ人間に限られていたはずである。殆どの国民は、聖戦を信じ、愛国的な立場から戦争に全身全霊を持って協力していたはずである。それが正しかったかどうかは別として、だ。

立ち返って、今という時代を見た時、私は困惑する。時代は明らかにきな臭くなっている。目先のことしか考えられない愚かな総理を支持し、ヘイトスピーチを公然と行い、共謀罪も原発も止めることができない国民。ネットには偏狭な情報が錯綜し、自分の知りたいことしか知ろうとしない、結論だけを言い立てて、歴史から学ぼうとしない人々。そういう中にあって、メディアリテラシーがどんなに重要であるかを私は痛感する。どうどうと音を立てて流れる濁流の中で、流れに足を取られずに自分の足でしっかりと立つことの大事さを思う。それは、かつての戦争で、誰もが流れに足を取られてしまい、誰もが気づけなかったことへの反省があるからこそだ。

「少年H」や「永遠の0」は、たとえ大きな戦争という流れの中でも、正しい行動はできたんだぜ、と教えてくれる。それに共感し、同調して読む私たちは、そうか、間違った流れの中でも、「自分だけは」正しくあれるのだ、と錯覚するかもしれない。誰もできなくても、「この自分」だけは正しく見極められたのだ、と追体験の中で思うかもしれない。なぜなら、「少年H」も「永遠の0」も、主人公たちは極めてたやすく自然に「正しく」見極められたからだ。彼らの戦後民主主義的価値観は、葛藤やとてつもない困難なしに、当然のように体得されている。それは、おとぎ話であり、ファンタジーであるとしかいいようのない物語である。

かくて、「少年H」や「永遠の0」に感動した読者は、「自分だけは正しく見極められる者である」という自負を持って、「マスゴミは間違っている、ネットの中にこそ真実がある」と深く確信するかもしれない。伝えられていない「某国の陰謀」を信じるかもしれない。抗いようもなく、かつての戦争の中で、ほぼすべての国民が、疑うすべもなく、流されていってしまったことへの反省に立つことなく。例外的に、自分だけは正しくあれるという英雄譚を信じて。

そんなことを考えて、暗澹としてしまったのだ。気がつけなかった、正しくあることができなかった、という反省よりは、「自分だけは正しかった」という物語の方が、よほど耳障りがよく、そしてまた、美しい。だが、それに感動することで、落としてしまう何ものかがある。ということを、この本を読みがら、私はずっと感じていた。

文にしたら長くてしつこくて説得力にかけていたかもしれないけどね。「少年H」や「永遠の0」を、今の私は手放しに評価しようとは思わない。最初に感動したことも、否定はしないけれどもね。

(引用はすべて「文庫解説ワンダーランド」斎藤美奈子 より)

2017/7/26