日本の身体

日本の身体

2021年7月24日

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「日本の身体」内田樹 新潮社

 

日本人には日本固有のの身体観があり、それに基づく固有の身体技法があるという仮説を検証するために、内田樹が茶道家、能楽師、文楽人形遣い、漫画家、合気道家、治療者、女流義太夫、尺八奏者、雅楽演奏家、元大相撲力士、マタギ、ラガーマンなどの達人と会って対談した。
 
文楽の人形遣いが、三人で人形を操っていても、人形の体感を共有できる話や、合気道の練習で二人一組になって歩き、相手の背中に両手をついて頭の中で右に曲がる、左に曲がるということを思い浮かべるとふっと曲がるなどという話は不思議で、でもきっと本当のことなんだろうと思えた。
強い力士の体は柔らかく、筋トレなんかじゃ作れない伸びやかな体をしていて、足の裏なんて赤ちゃんみたいだという話も興味深かった。
国や場所によって独特の歩き方があるというのも、なるほどと思えた。
 
「達人」たちのたたずまいにはどこかしら共通したものがあった。その時にはそれが何かうまく言葉にできなかった。今は何となくわかる。
 それは対面している時の空間の手触りが「多孔的」だということである。「孔」がたくさん空いているのである。インタビュアーである私からすると「取り付く島」がたくさんあるということである。どんな話題から始めても、どの入口もちゃんと「中」に通じている。こちらに十分な専門知識が欠けているせいで話が噛み合わなくて困ったという経験はこのインタビューの仕事ではついに一度もしないで済んだ。どなたも、私の素人めいた質問に答えつつ、たちまちまっすぐことの核心に私を導き入れてくれた。それはもちろんこの達人たちが人間的に成熟しているということであるからなのだけれど、それ以上にこの方々が「良導体」であるように常住坐臥心身を整えていることと関係があるのだと私は思う。私の質問に対して「聞こえないふりをする」ような態度を示されたことはついに一度もなかった。あらかじめ自分で用意してきた「できあいの話」をまくしたてられるということもなかった。
        (引用は「日本の身体」内田樹 少し長過ぎるあとがき より)
 
話がややずれてしまうのかもしれないが、先日、とある友人が参加しているボランティアグループで、嫌なことが何もない、という話を聞いた。なぜならメンバーが全員「大人」だからだ、という説明に、しみじみと感じ入った。
 
成熟した大人というものは、不信や悪意や妬み嫉みのないフラットな状態で人に対し、自分の持つものを見せること、与えることを惜しまない。自分の中に揺るぎないものをもっているから、それができるのだろう。
 
読了して、とてもよい大人たちの会話を傍でずっと聞いていたような、良い気持ちになる本だった。
 

2014/9/8