日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき

2021年7月24日

「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」 水村美苗

これは、がっぷり、がっつり、ずっしりの本でございました。
重たくて、読み応えがあって、途中でしんどくなるけど、頑張って読むだけの価値はあると思われる。
ジャンルは、何なんでしょうねえ・・・言語論?

現地語、国語、普遍語、書き言葉、話し言葉、公用語、出版語。
いろんな概念が溢れて、ごちゃごちゃになりそうですが、ここは、気持ちを落ち着けて、よーく区別をつけて読むべきです。そこから、ほほう、なるほど、そうであることよのう、と目から鱗の世界が広がります。
広がりますが、それは決して明るいものじゃないのね。

西洋におけるラテン語、中国における漢文。
それらは、書き言葉であり、叡智を求める人の、図書館となる言葉でありまた。
いろいろな現地語があっても、学問はラテン語でなされたから、ヨーロッパの、叡智を求める人達は、ラテン語で書かれた書物を通じて、真理を得ることができたのです。
中国でも、北京語、広東語などなど、あらゆる現地語があったけれど、漢文で書かれた書物を読めば、通じ合うことができました。

今、英語がすさまじい勢いで、普遍語となっています。インターネットの発達が、それを加速させているのです。
ノーベル文学賞を受けられるのは、英訳された文学に限り、現地語で書かれた文学は、それがどんなに真理を描く優れたものであっても、存在しないに等しいものとされてしまいます。
しかし、翻訳は、翻訳することによって、文学そのものの価値を変質させてしまうのです。
たとえば、夏目漱石の文学は、英訳を読む限りにおいて、海外では全くと行っていいほど、評価を受けていません。

引用

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。

という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

仏蘭西へ行きたしと思へども
仏蘭西はあまりに通し

に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

フランスへ行きたしと思へども
フランスはあまりに通し

となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。

蛇足だが、この詩を口語体にして、

フランスへ行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。

(「日本語が亡びるとき」水村美苗 より引用)

という事例は、余りにもわかりやすいものです。日本語の文学は、翻訳によって、その価値を全く伝えられないことがあり、それはどの言語でも同じことなのでしょう。

日本語は亡びるのでしょうか。
案外、ちゃっかりと生き延びるような気もするし、河合隼雄先生がそう言っていたと水村さんも言っています。でも、それはのんきすぎると水村さんは指摘しています。

少し前に、岡田斗司夫さんが、映画館の違法録音、録画を注意するCMについて、あれはどうも嫌だ、と言っていらしたことがあります。もちろん著作権は守られるべきだけれど、という前提の上にですけどね。

およそ何らかの表現活動をするものは、自分が利益を受けるか否かは別として、自分の表現したものを、少しでも多くの人に見て欲しい、聞いて欲しいという願いを持っているはずだ、と彼は言うのです。たとえ一銭の儲けにならなくても、一人でも多くの人に、伝えたい、と言う根本的な欲求のもとに、表現者は活動しているのであって、そこんとこは忘れちゃいけないんだ、と。

もちろん、私も著作権は守られるべきだと思うし、ネットなどで著作が無料で駄々漏れする状態はよろしくないと強く思っています。でも、岡田さんの言う事も、確かにそうだなあ、とその時、頷いてしまったんです。私のように、こんな閉ざされた場所でひっそり日記を書いているものでさえ、何かしらコメントをもらうととても嬉しい、読んでくれている人がいると思うと、また書こうと思う。であるなら、およそ作家と呼ばれる人、あるいは、何らかの学問を追求し、その結果得た真理を伝えたいと思う学者さんたちは、一人でも多くの人にそれを伝えたい、理解して欲しいと思うのではないかしら。
そして、それが、日本語という辺境の言葉ではなく、世界中に通じる英語という言葉を使えば可能であるのなら、最初から、英語で表現することを選ぶようになるのは、十分ありそうなことではないかと。

ならばどうしろと。

この先、〈叡智を求める人〉で英語に吸収されてしまう人が増えていくのはどうにも止めることはできない。大きな歴史の流れを変えるのは、フランスの例を見てもわかるように国を挙げてもできることではない。だが、日本語を読むたびに、そのような人の魂が引き裂かれ、日本語に戻っていきたいという思いにかられる日本語であり続けること、かれらがついにこらえきれずに現に日本語へ戻っていく日本語であり続けること、さらには日本語を〈母語〉としない人でも読み書きしたくなる日本語であり続けること、つまり英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味を根源から問い、その問いを問いつつも、日本語で読み書きすることの意味のそのままの証しとなるような日本語であり続けることーそのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選び直すことができる。
私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。そう信じている人が、少数でも存在している今ならまだ選びなおすことができる。選び直すことが、日本語という幸運な歴史を辿った言葉に対する義務であるだけでなく、人類の未来に対する義務だと思えば、なおさら選び直すことができる。
それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしか無い。
自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。

(「日本語が亡びるとき」水村美苗 より引用)

水村さんは、悲壮な決意を固めてらっしゃるようです。で、私はそれを読んで、胸打たれ、じゃあ、最近始めた英語の勉強、やっぱりやめちゃおっかな、と訳のわからん結論にたどり着きそうになりましたが、いやいや、それは単なる怠け心だろう、と自分にツッコミを入れて、終りました。

2010/6/14