木

11 幸田文 新潮社

映画「PERFECT DAYS」を見てきた。役所広司の演技が素晴らしい。無口な男の役なのでほとんどセリフがないのに、思いが、感情がしみこむように伝わってくる。オープニング、朝起きて布団をたたむ。それだけで、この男がどんなに几帳面で物事をおろそかにしない、丁寧な人物であるかがわかって感嘆する。彼は、夜寝る前に読書をする人である。彼が古本屋で手に取り、ぱらぱらとめくって購入したのがこの「木」である。古本屋の女店主が代金を受け取りながら「幸田文の日本語は素晴らしい。同じ日本語なのにね。」みたいなことを言う。もっといいことを言ったのだと思うが、覚えてなくて面目ない。

それで読みたくなって県立図書館に予約を入れたら、書庫の中から古い本を取り出してくれたらしい。上の写真は文庫本のものだが、私が読んだのは固い装丁の1992年発行の単行本。ベージュの枠取りに「木」と墨書されたシンプルな表紙。まさしくこの本の内容そのものを体現するような表紙であった。

自分が歳をとって気が付いたひとつに、自然の万物に驚くほど心を動かされるようになったことがある。草花や樹々、鳥や山や水の流れに心が揺れ、感情を寄せてしまう。年寄りは涙もろいなどというけれど、確かに感受性が少々敏感になって弱っているのやもしれない。幸田文氏は、そうした流れで、樹木に心惹かれ、行動派であるから様々な木に会いに出かけ、専門家に教えを請い、そしてこの美しい本を残した。確かに美しい日本語である。格調高いとはこういうことを言うのだと思う。

最初の章は樹木更新について書かれていた。樹木更新とは、古い切り株や朽ちた木の上に自然に落下した種子が芽を出して、そこから成長することをいう。昨秋、屋久島で「倒木上更新」や「切り株上更新」をいくつも見たところだったので、何か嬉しく思いながら読んだ。すると、次の章では幸田さん、屋久島に行っておられるではないか。私がひいひい言いながら到達した、あの縄文杉に会いに行っている。どうやって行ったのか、この文章を書かれた時点で幸田さんはおそらく70歳を過ぎていらっしゃったであろう、とひやひやしながら読んだ。やはり御年相応の対応はなされていたようである。が、文章の格調の高さと言ったらどうだ。私は自分の旅行記を読み返して赤くなる。同じ場所に行ってこうまでに違うものか。同じ縄文杉を見て、幸田さんはなんと深くその姿を見、考え、心に落とし込んでいることか。ただただ疲労しきっていた自分が情けない。しみじみとこの章を何度も味わい直してしまった。

いくつか先には桜島の話も載っている。桜島も私は行っているし、灰も見ている。だが、幸田氏の灰への思いは限りなく深く、その灰に覆われてしまった樹々への思いも果てしない。そうか。人は、こうまでも万物から深い思想を得るものか。私はなんとちっぽけなことか。感動してしまう。

読みながら、ずっと私は「老い」について考えずにはいられなかった。するとこんな文章に行き当たった。有珠山の火山活動が活発化した後の話である。噴火や避難のことを地元の教育長さんに教えてもらいながらの車内で、被災のことに心が暗くなりながらも美しい紅葉を見た様子である。

人が歳をとると自然に心打たれるのは、こういう気持ちなのだろう。散る美しさに胸打たれることに若い頃は反発もあったが、今となっては、もう散るしかないもんね、なのである。それにしても幸田文氏はそれを美しく丁寧に書く。無理だあ私には、と思いながら、うっとりと読み続けた私である。

文学というのはいいものだなあと思った。読みやすい、軽い、分かりやすいものばかりをつい読みがちだが、たまにこういう格調高い美しい文章に触れるのはとても良いものだ。良い映画を見たおかげだ。役所広司さんも、ヴィム・ヴェンダー監督も、本当にありがとう。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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