父「永六輔」を看取る

父「永六輔」を看取る

2021年7月24日

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「父「永六輔」を看取る」永千絵 宝島社

 

永六輔は、私の人生の師のひとりである。高校生の頃から永さんのラジオを聞いていた。小沢昭一や野坂昭如や矢崎泰久や愛川欽也や黒柳徹子と楽しそうに喋っていた深夜放送。おすぎとピーコ、久米宏、伊集院光なども彼が育てた人たちである。タモリをNHKのテレビに最初に引っ張り出したのも、彼だったんじゃないかなあ。尺貫法で戦っていたのも覚えているし、後には中山千夏の参院選などの応援もしていたっけ。うそのない、真っ直ぐな、自分の目で確かめたことだけを喋る、信頼できる大人であった。作詞家としての名声よりも、ラジオの人としての彼を私は好きだった。
 
晩年は、滑舌が悪くなって、ラジオでは殆ど何を言っているかがわからず、アシスタントのアナウンサーが「通訳」となっていた。でも、「うわわわっ」みたいな発声だけでも、永さんがいる、喋っている、というだけで存在感があった。最後の徹子の部屋の出演は、さすがに痛々しい様子であった。大橋巨泉と二人で助け合いながら出演していたが、後に数日差でふたりともお亡くなりになった。
 
永千絵は永六輔の長女である。アナウンサーをやっていた妹と違って、人見知りで、引きこもりになりそうなタイプだそうである。永さんの本名「孝雄」さん担当が自分で、「六輔」担当は妹である、と書いていらした。彼女は、有名人永六輔ではない、永孝雄さんの最後を看取った人である。
 
永孝雄は頑固でわがままな老人だったようだ。ラジオでは、なんでも相談できるかかりつけの主治医を見つけろ、などとリスナーに言っていたくせに、自分は病院を嫌った。人間ドックも体重、身長、血圧を測った時点で逃げ出して、特別食だけ平らげて帰ってしまっていたという。後に気力がなくなり、表情が衰え、言葉が出なくなっても検査を逃げ回り、パーキンソン病の発見が遅れた。MRIの機械の中に入ってすぐに飛び出して、走って逃げたという。後に前立腺がんやその骨転移も、検査嫌いのゆえに発見がすべて遅れている。だが、早期に見つかったらもっと長生きしたのかと問えば、よく解らない、と千絵さんは書いている。私もそう思う。
 
しっかりとした自分の意志を貫く人だと思っていたけれど、晩年のラジオ出演は、周囲はかなり困惑もしていたらしい。言葉がすでに通じなくても、やめると本人が言い出さないかぎり、やめさせることはできない。本人は何を尋ねても返事もせず、曖昧なまま仕事は続いた。千絵さんは、もっと早くやめても良かったのでは、と思っているようだ。なくなった小沢昭一が、永さんはそこにいるだけでいいからラジオを続けろ、と言い残したらしい。本当にギリギリまでラジオに出られていた。
 
実際にはせん妄もあったし、よくわからなくなっている部分もあったようだ。自分の父を見ている私にはその状態が何となく分かる。仕事を続けるのが本当にいいことなのかどうか、身内が迷う気持ちもよく分かる。千絵さんが、もっと早くにやめるチャンスがあったと書いているのも、本当に、よく分かる。それでも、ラジオ界にとって永六輔は巨神であった。誰も否定できない存在であった。
 
誰にも知らせなかったのに、永六輔の死はマスコミに漏れた。静かに送りたかったのに、家の前にマスコミが集まり、近所にピンポンを押しまくっては事情を尋ね歩かれた。家族は後であちこちに頭を下げて回り歩いたという。有名人の過酷さを思い知らされる。
 
ご本人は、自分でも死んだと気づかないうちに亡くなったのではないか、と主治医は言ったそうである。前夜に、娘二人と珍しく笑いあい、スルメをしゃぶって、ぐっすりと寝入ったのが最後である。もしかしたら、とても幸せな最後だったのかもしれない。
 
人はいずれ老いて死んでいく。その現実を日々突きつけられている。どんな風に老いるか。どんな風に死ぬのか。それは、誰しもに突きつけられる、決して逃れられない問題である。永さんすら、死んだものなあ。最後には衰えて、死んでいったものなあ。
 
死なない人はいない、と改めて思う。私は私の生を、死を考え、出来る限りの責任を取りたい、と思う。思うけれど、それはとても難しい。
 
 

2017/11/20