生皮 あるセクシャルハラスメントの光景

生皮 あるセクシャルハラスメントの光景

104 井上荒野 朝日新聞出版

とある小説講座の講師と教え子との関係を中心に、いくつかのセクハラの関係性を描いている。読み始めはつらすぎて、何度もページを閉じてしまった。被害者と加害者は、どうしてこんなにも感情が隔絶しているのだろう。被害者は、何年たっても苦しい思いを捨てることができなくて、自分を責め、他者に知られることを恐れ、生きることを疑うというのに、加害者は、自分がやったことを忘れ、美化し、相手を蔑み、蔑んでいることにすら気が付かない。

伊藤詩織さんは立派だった。どんなに勇気と覚悟のいることか、それによってどんなに傷つくかは予見できたし、もっと苦しむかもしれないにもかかわらず、声をあげた。私は彼女に心からの敬意をささげたい。この物語でも、小説家を目指し、ささやかな受賞経験もありながら、君の才能を伸ばすからという講師の言葉に抗えずにレイプされてしまった女性が、それを告発することによってさらに傷つき、惑い、そして周囲が動かされていく様子が描かれている。

私には、とある分野で頑張って働いていた友人がいる。彼女はその分野の大御所に襲われて顎に一発お見舞いし、難を逃れた。それから彼女に大事な仕事は回らなくなった。「才能がある人にではなく、大御所と寝た相手に仕事が回される」と彼女が愚痴ったら、信頼していた上司は「そりゃ当たり前だろう」と何のためらいもなく言ったという。寝なければ、どんなにがんばっても、自分に才能があるかどうかもわからないのか、評価されないのか。彼女は、その分野の仕事をやめた。今は別の場所で、よい仕事をしている。彼女の才能に、私は敬意を持つ。彼女が諦めたその分野は、得難い人材を失ったのかもしれない。

文学界でも、映画界でも、音楽界でも、学術界でも、芸能界でも、あるいは普通の会社でも、学校でも、こうやって女性は上に立つ大物の言いなりにならないと、大きな仕事や地位を得られない場合がままある。それが当たり前すぎて、疑いもしない人たちもいる。むしろ選ばれたものとして得意がっている女性や、それをうらやむ男女もいたりする。それは、思っているよりもこの世に深く浸透して、極めてありがちな風景にすらなっている。

「生皮」は、被害者の心を丁寧に描き出す一方で、加害者の言い分も大いに書いている。が、どんなに立派な御託を並べたところで、彼らは、ただ、自分の欲望を果たしたいだけとしか思えない。それに本人が気が付いていないのだとしたら、とんだ大馬鹿者である。抵抗しなかったから、一緒に部屋に入った時点で合意してるとしか思えない、という言い訳は、まさしく言い訳でしかない。

小説講座の講師の娘が「私が同じことをされたらどう思の?」と父に問う。実際に、似たような経験が彼女にはある。自分が誰かを踏みにじることは、自分の大事な誰かを踏みにじられることでもある。そうした想像力を、私たちは忘れてはいけない。