街道をゆく

2021年7月24日

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「街道をゆく35オランダ紀行」司馬遼太郎 朝日文庫

7月に司馬遼太郎記念館に行った時に夫が購入した本。夫が相当時間をかけて読んだ後、私が握りこんで、じわじわと少しずつ読んだ。あまりに時間をかけすぎて、読み終えてから感想を書くのに戸惑った。というのも、印象に残ったエピソードがどこに載っていたのか、そもそも本当にこの本だったのか、わからなくなってしまっていたのだ。

紀行文ではありながら、いろいろな場所を訪れながら、司馬氏は次々に薀蓄を披露する。オランダという小さな国と日本との関わりを、あるいはゴッホを、ゴッホを通して絵画というものを、それはそれは熱を込めて語る。話はどこへ行くの~、と何度も迷子になりそうになった。

印象深かった場所がやっと見つかった。ごく最初のあたりにあった。

 出島の商館のオランダ人は、わずかな人数だった。
 商館長として、甲比丹(カピタン)がいた。
 ついで、次席館員、医官、簿記役などがいたほか、大工や鍛冶屋、バター造りの職人などがいて、あわせて常時十数人にすぎなかった。
 このとじこめられた十数人が―ちょっと考えられないことだが―江戸期の日本文化に重大な影響を与えたのである。

日本社会がひとつの暗箱なら、長崎は針でつついたような穴であり、そこから差し込む光がオランダであった、とも司馬氏はいう。本当にごく僅かな人たちを経て、日本は外国のことを学びとっていた。佐久間象山が、モールス信号が発明されて数年後には電信機械を作っていたという事実に私は打たれる。どんなちっぽけな存在でも、それがある、ということは確かな力になる、という真実を見たような気がする。

 杉田玄白の『蘭学事始』は、筆写本だった。
 幕末、その一本を神田孝平が湯島の露天で見つけたときはほとんど世から忘れられていたが、福沢諭吉がこの内容に感動し、明治二(1869)年という維新の騒然たる時期に、自費で刊行した。福沢は、この本が、日本人の営みをしる上での宝であるとした。

(引用はすべて「街道をゆく オランダ紀行」より)

『蘭学事始』は歴史の教科書にも載っていて、今では小学生でも知っている。しかし、それは、幕末には忘れさられていたのだ!福沢諭吉がすくい上げねば、そのまま歴史に埋もれていたかもしれない。けれど、もし埋もれていたとしても、彼らのしたことが大きな功績であったことに違いはない。ということは、また、実は歴史の中には、きっと様々な偉業が埋もれているのだろうとも想像できる。そうして、忘れ去られた沢山の人々の偉業の上に、今の私たちは立っている。きっとそうだ、と私には思える。

司馬氏の本を全部読むのは大変だろうなあ。とりわけ、この街道シリーズは、本として読むには、あまりにあちこちへ自由に飛びすぎて、ついていくのが大変だ。

老後の楽しみにとっておくかなあ・・・。

2011/10/28