遺言。

遺言。

2021年7月24日

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「遺言。」養老孟司 新潮新書

 

みなさま、お久しぶりでございます。北関東に引っ越してはや二週間が経とうとしています。ちょっとした手違いがあって、この二週間というもの、ネット環境から遠ざかっておりました。昨日、ようやっとインターネット開通に至ったわけですが、いやあ参った、参った。日頃、我々がどれだけネットに依存した生活を送っていたかがよくわかりました。ある意味、非常に清々とした生活を送っていたとも言えますが、やっぱりネットがないと不自由極まりない。今時珍しいガラケーユーザーなものだから、パソコンがアウトとなると、きれいさっぱりネット情報の渦から遠く離れておった次第でございます。何しろ、こんなに不便なら、この際スマホに買い換えようか、となるとどこの社のどのプランが一番有利かひとつ調べてやらねば、とパソコンに向かいかけて、あっ・・・と思う、という体たらく。とほほでございます。
 
引っ越しの話をもう少し続けると、もう、あれだね、本は買っちゃいけない。一冊たりとも、買ってはいけない、と固く心に誓いながら、「プリニウス」の最新刊はまだか、などと考えるこの矛盾をなんとしよう。書庫に定めた二階の洋室に、本の入ったダンボールがうず高く積み上げられ、びっしりとパズルのピースのようにはめ込まれ、身動き取れない状態になっているのを見て、ああ、このまま火をつけて燃やしたらどうだろうか、と思ってしまった私を許して。人間の業としか言いようがない。我々は、こんな大量の紙の束を抱えて生きていくしか無いのであろうか、とつくづく思った、いや本当に、思った次第でございますです。はあ・・・。
 
さて。そんな日々、ネットに向かえない分、さぞかし読書のはかが行ったかと言えば、これが、引越のごちゃごちゃもあったし、気持ちもなんだか落ち着かないし、しかも近所に図書館もないしで、結局、ほとんど読めていない。私よりディープな本読みだった夫も、何しろ出勤がバスで十数分という近さ故に、読書時間が取れない。このまま二人、本を読まない生活に突入するのはどうだろうか。無理だろうなあ・・・・。
 
というわけで、数少ない読み終えた本のひとつがこれ。80歳になられた養老先生の遺言というわけです。
 
養老先生は賢いお方だ。読んでいて深いし、楽しいし、それでいて、とてもよくわかる。こういう叡智を持って生きていけたら人生は豊かだろうなあと思う。そこに到達する前に私は死んじゃうだろうけどねえ。
 
シロと名付けた猫に「白」と漢字でて書いて見せてやっても「それは黒じゃないか」と言われるだろう。だって黒い字で書いてあるからね。赤い字で書いた「青」を乱暴にも「アオ」と読むような動物はジャングルでは生き残れない、と養老先生はいう。なるほど。a=bと言われても、aとbが同じ訳がないじゃないか、だってaは右にあるし、bは左にある、しかも字も違っている。だよね。そりゃそうだ、と思う。だけど、我々はa=bと言われると、その2つが同じだと受け取る、そういう世界にいる。
 
アタリマエのことなんだけど、改めて指摘されないと忘れていたことを教えられる。そう言えば、子どもの頃から、「友達が見ている青と、私の見ている青は同じ青なのか?」という疑問を何度も持ったもののだけれど、全く同じことがこの本に書かれていて、おお!と感動した。意識とは何であるか、ということも、何度も不思議に思っていたけれど、それこそがこの本のテーマとなっていて、なんと面白かったことか。と言っても、相変わらず、私の中でこの問題は解決はしていないのだけれどね。人の頭とか、知恵とか、意識という根本的な問題にゆるゆる取り組んで、淡々と語っておられるのが、実におもしろい。
 
さてさて。「意識はそんなに偉いのか」などと養老先生に突きつけられながら、妙な自意識を抱え、意味の塊のようで無意味な紙の束を抱え、今年度も私は生きていくしか無いようであります。さあ、今年度はどんな本をどれだけ読むのかなあ。

2018/4/13