証言台の子どもたち

証言台の子どもたち

2021年7月24日

「証言台の子どもたち 『甲山事件』園児供述の構造』浜田寿美男

パルティオゼットのお友達にご紹介いただいた本。ずしり、と重い本でした。

思い出しました。私、この事件の容疑者だった山田さんとお会いしたことがあります。まだ私が大学生だった頃、「話の特集」という雑誌の編集長、矢崎泰久さんと、当時参議院議員になり立てだった中山千夏さんが上野の本牧亭で月一回、寄席を開いていて、その場で甲山事件の支援を呼びかけていたのです。その日は中山さんの当選祝いの寄席だったので、お祝いムード一色のはずなのに、張本人の中山さんが、この事件について、熱く必死に語っていて、まだお若い山田さんは、静かに座っていらした。私は、中山さんの当選までのいきさつを聞きたくて、そちらの話を聞き流していたのです・・・!その事を、苦い思いで思い出しました。

たいへんな冤罪だったこの事件は、恐ろしいほどの長い年月を経て、完全無罪を勝ち取りました。この本が出されたのは、控訴された直後なので、まだ解決しきっていなかったのですね。知恵遅れの子供たちの証言が、いかに捻じ曲げられ、歪曲され、有罪判決へつながれて行ったか、読むほどに恐ろしくなります。

障害者施設の園児がふたり、浄化槽で死んでいるのを発見され、その施設の保母が、殺人犯として逮捕された。証拠になったのは、施設の子どもたち(精神薄弱児)の証言。一度は無罪判決を受け、放免された保母は、数年後に、再度逮捕され、またもや無罪は決を受けたにもかかわらず、控訴され、完全無罪を得るまでに、二十年以上の歳月がかかった・・。

「虚偽は虚偽として処断されねばならない」という、本書の最後に書かれた主張が心に残ります。

彼らは「精神薄弱者」というラベルのゆえに、結局、その責任性を免除されている。(中略)彼らは、「精神薄弱者」として、福祉とか化学の名のもとに、施設や養護学校のなかで、現実への権利と同時に責任をも免除され、放棄させられてきた。
そうだとすれば、彼らの無責任性の原因の一端は、彼らをそういうなかに追い込んできた私たち自身にもある。もちろん、この無責任性を利用し、それを再び化学の名のもとに隠蔽使用とした警察・検察は弾劾されなければならない。しかし同時に、彼らの無責任性をいわば支えてきた私たち自身の生き方、社会のあり方をも弾劾せねばならないはずである
。(「証言台の子どもたち」浜田寿美男 より引用)

子ども達の罪、障碍のある人たちの罪を、私たちはどう捉えていったらいいのでしょう。その結果を想像することができないままに、口にしてしまった言葉が、1人の人間の人生をずたずたにしたという現実を、彼らにどう背負わせていくことが出来るのでしょう。この本の主張は、十分理解できながら、私は、自分の気持ちをはっきりとまとめることが出来ずに困惑しています。

子ども達の証言を引き出した担当警察官は、子どもたちに真摯に向き合う人たちであった。であることが、子どもたちにどんな影響を与えていったか、までをも考察しつつ、証言に重きを置く裁判の恐ろしさが暴かれていきます。先入観がどのように働いていくか、なぜ、そのような証言が引き出されていったか。司直の立場にある人の重い重い責任と、その果てにある、人間の人生を支配してしまう判決を思うと、冤罪というものの存在が、深く身に迫ってきます。私は、裁判員になることが怖い、と思ってしまいました。私には、難しすぎることが、余りにも多いのです。

2007/7/11