こんな夜更けにバナナかよ

2021年7月24日

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こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」

渡辺一史 北海道新聞社

 

秋に映画を見た。筋ジストロフィー症で、寝たきり、車椅子に座りきりの鹿野靖明が、一日中たくさんのボランティアたちの力を借りて自立生活をする話だった。鹿野さんは「助けていただいている者」の謙虚さなんて何一つ持っていなくて、夜更けにボランティアにバナナを要求して買って来させるし、我が儘を言い張るし、病院でも激しく自己主張して勝手に退院してしまう。だけど、彼の不思議な人間的魅力は、いつもボランティアたちをひきつけ、腹を立てたり、喧嘩をしたりしながら、大勢の人間が彼から離れない。大泉洋はそんな鹿野さんを頑張って演じていると感心した。
 
でも原作のこの本を読んで、やっぱり映画は一部のことしか伝えられないのだと思った。大泉洋の鹿野さんは熱演ではあるけれど、やっぱり彼は健常者だから、腕を見る影もなく痩せ細らせることは出来ないし、体をクラゲみたいに薄っぺらくは出来ない。だから、筋ジストロフィー症の外見を完全に再現することはできないし、また、あまりにも生々しい葛藤や苦しみも、画面に出しきれない。
 
映画を見てから原作を読んで良かったかもしれない。私は全然いい人ではないし、人のために尽くすなどということが上手にできる人間ではない。だから、怖気づいてこんな本は読めなかったかもしれないのだけれど、映画を見ていたから、いくらでもいい加減で我が儘で適当な人が、それでも鹿野さんと関わり合って、彼を自分のできる範囲で助けたいと思って、楽しんで(苦労して)ボランティアをやっているのがわかっていた。だから、自分を後ろめたくなんて思わないで、安心して読めた。
 
第一、この本を書いた作者自体が、ボランティアとか障害とかに全然興味もなくて、ただ、人に依頼され、勧められて鹿野さんを素材に書くことにしただけの人だ。外側から、鹿野さんやボランティアたちにインタビューするだけのはずだった彼が、気がつけはボランティアのローテーションに組み込まれ、鹿野さんの最期まで伴走することになる。
 
鹿野邸には厚底靴が並ぶんだぜ、という話。いろんな境遇のいろんな年齢のいろんな男女がそれぞれの生活を抱えながら、鹿野さんの世話をする。その数は数百人に及んだ。鹿野さんは、そのすべての人と一対一で、まさしく体中で付き合い、向き合い、関わってきた。命をかけて、日々を生きる、ただそれだけのために大勢の人を求め、答えられた。
 
ただ生きて、死んだ、という言い方もできるかもしれない。だけど、彼はきっとものすごいことを成し遂げた人だったのだと思う。鹿野さんに関わった人は、皆、人生を少しずつ変えたし、いろんなものを得た。鹿野さんは聖人でもなんでもない、我が儘であけっぴろげな(というか、一日中すべての世話を人に委ねるので、自分一人の時間も秘密も持てない)人だ。みんな怒ったり喧嘩したり、飛び出したりしても、気がつくとまた戻ってきた。北海道の不便な街で行われたお葬式には、300人以上が集まって、いつまでも思い出話が尽きなかったという。
 
映画のエンディングでは鹿野さんは笑っていたけれど、本物の鹿野さんは死んでしまった。みんなが、ああ、もう大丈夫だ、と安心した矢先にあっけなく逝ってしまった。残念だ。残念だけど、よく頑張ったと思う。
 
何かすごいことを成し遂げるとか、有名になって世間に認められるとか、大金を稼ぐとか、もうそんなことはどうでもいい、と本当に思うね。鹿野さんみたいに、毎日を生き延びるために全身全霊で頑張った人を、心からすごいと思うし、それに付き合った大勢のボランティアもすごいと思う。人間って捨てたもんじゃないと思う。生きることの意味って、一つや二つじゃなくて、存在する人間の数だけあるんだと思う。
 
読んで良かった。

2019/3/28