日本の反知性主義3

日本の反知性主義3

2021年7月24日

さすがに話がずれてきたので、もう一度小田嶋隆に立ち戻ろう。
 
彼は、「反知性主義って、オレのことか?」と心の暗い側の半分で思っていると書く。俺はインテリなんかじゃないぞ、という彼の心性がそう思わせるのだ。クラスには、出来のいいやつとあまり出来の良くない奴がいた。出来杉君とヤンキーにざっくり分けてしまうと、出来杉君は「人間の価値を決めるのは頭の良さだぞ」という価値観を牢固として抱いたまま大人になる。ヤンキーはある時点で「学歴競争から降り」、「非学歴的な価値観」を獲得し始める。ところで、戦後民主主義に関わりのある文言は、学校経由で伝えられることが多かった理想であるだけに、「授業」や「学問」と同一視される要素を多分に備えていた。となると、「学校」という「体制」への「反抗」は、右側に立つことによって成し得られることになる。乱暴だが、その分析はある側面で正しい、と私は思う。
 
その一方で、戦後民主主義がもたらしたリベラルな秩序の大きな部分は「試験をパスした人間」が優遇されるという形で具現化された。その象徴としての「官僚」「マスコミ」「インテリ」などを橋下市長は「既得権益層」としてナニワの庶民の仮想的に仕立てあげた
 
だが、小田嶋隆は、反知性主義をめぐる議論は、知性云々を軸にした対立であるよりは、「分断」のストーリーなのだと思っているという。つ まり、現在、この国で、若い層を中心に、人間を二つの階層に分断する動きが進行しているということだ。最初に知性を軸とした対立があって、その結果とし て、人々が二つの陣営に分裂しているのではない。順序としては、分断が先にやってきていて、その分断を生み出したものとして、「知性」が悪役に仕立てあげ られている、と分析する。
 
思うに、われ われは、知性みたいな些細なことで対立することはやめて、なるべく早い時期に、きちんとした再分配のある、まともな社会を取り戻して、この分断の進行を阻 止しなければならない。(「日本の反知性主義」内「今日本で進行している階級的分断について」小田嶋隆より)
 
この分析は、私には一番ぴったり来るものだった。「神聖喜劇」を、悪(=無教養)を善(=知性)が教養を武器に退治する物語として読み違えてしまっていた、 そしてそのことに、この歳になってようやく気づいた愚かな私は、反知性主義を単純に知性を軸にした対立として捉えることに疑念を持つ。気をつけないと、それは分断を深め、階層化 を狙うあの政治家たちに便利に使われる危険性につながる。「あいつらバカだからどうしようもない」VS「学があるの をひけらかしてすかしてやがらあ」という身も蓋もない罵り合いに発展し、その分断を更に深める結果につながる危険性を忘れてはならないのだ。もちろん内田樹を始めとするこの本に寄稿したような見識の高い論者はそんなおつもりはなかろうけれど、ただのおばちゃんである私は、用心深く、頭を整理しないとまた 読み違えてしまう危険性があるとつくづく思うのだ。
 
知力のあるものが、そうでないものを支配し抑圧したという歴史を 学ぶたびに私は暗澹たる思いにかられる。というのも、いつの時代に生まれたとしても、どう考えても私は支配する側の人間には成り得ないからだ。もし戦前に私が男子とし て生まれていたら、やがて徴兵され、軍隊で殴る側に回っていたのかもしれない。あるいは、ちょっと勉強するのを休んでいたら、盗んだバイクで走りだして学 校の窓ガラスを割り、体制に反抗することに熱心だったかもしれない。IQが低いがマスコミには乗りやすいと政治家に見透かされて踊らされていたかもしれな い。今だって、気がついていないだけで、誰かに騙されているのかもしれない。
 
子供に数学をどう教えるか、という話を 母親同士でしていた時のことだ。等号の片側からもう片側に数字を移動させるとプラスはマイナスになり、マイナスはプラスになる。それはどうしてなのかと問われて答えられなかった、という人がいて、それに対して簡単に説明する人がいた。すると、そんなことは教えなくていい、覚えなくていい、という人も出てきた。公式ややり方を覚える際には、なぜそうなるかを説明されるけれど、覚えてしまったらそれで済む。後は余計なことは考えずに、覚えたやり方に従ってさっさと計算するほうがよほど効率がいい。
 
でもね、と私は言った。なぜそうなるのかがわからないと、自分が計算しているものの意味がわからな い。何をやっているかが分からないで数字をいじっているだけだと、ものすごくつまらないし勉強が苦痛になるよね、と。だが、と彼女は反論した。そもそも勉 強なんてものは苦痛なのである。そして、公式を覚えてぱっぱっと解いていかないと時間がもったいない。なぜそうなるのかなんて覚えて納得して理解して数学を楽しむのは「出来のいい子どもがやることよ。うちの子は違うわ」。
 
私はある学習法のプリントを見た時のことを思 い出した。幼稚園児が、あらゆる数字に「+1」をしていくのである。どんな数字に対しても、1を足し続けると、そのうちに瞬間的に答えが出せるようになる。それをマスターしたら次は「+2」が待っている。私はなんだかぞっとして、評判の高いその学習法に我が子を近づけようとは思えなかった。苦労するのは、掛け算の九九でたくさんだ、と思ってしまったのだ。
 
その学習法は広く受け入れられている。たかだか一枚のプリントを見ただけで逃げ出した私が間違っているのかもしれない。だが、あらゆる数に機械的に一を足す作業を幼児に課すことや、やり方さえ覚えてしまったらなぜそうなのかは忘れてしまったほうが効率がいいという発想に、なにかやりきれないものを私は感じる。そこに、私は「反知性主義」のか けらを見る思いがする、と言ったら言いすぎだろうか。
 
本当に賢い人間というの は一握りなので、我々のような凡人は、様々な手段を使って少しでもそこに近い場所を目指そうとする。だが、その方法こそが、本当の賢さから遠ざかる原因と なることもある。そういう小賢しいやり方ではない、それぞれが「真の知」に近づけるより良い方法を、私たちはどうやって手に入れたらいいのだろう。
 
私のようなただのおばちゃんは、例えば子どもたちが学校で何をどのように習うのか、教師が子どもたちにどんな姿勢で勉強というものに向かわせるのか、親たちが子どもに何を教えるのか、という極めて卑近なものとしてそれを知りたいと思う。この難しい本を読んで、最後にたどり着くのは、そこだ。様々な知力を持ったものが、それぞれにそれを最大限に活かし、多くを持つものと、そうでないものとの対立構造を生み出さずにうまくやっていく。その地固めをするものこそが教育ではなかろうかと思うのだ。
 
小田嶋隆はその論の中で、たった三行だけ、前向きのことを書いている。
 
知性は大切なものだ。
そして、学問はありがたいものだ。
私たちはそれらを自分たちの手に取り戻さなければならない。
 
私も、そう思う。知性というものを、真の意味で手に入れるために何が必要なのか。それを考えなければ、いくら反知性主義を批判しようとも、そこから逃れることはできないような気がする。そして、それはとてもとても難しいことだ。

2015/6/15