花びら供養

花びら供養

2021年7月24日

122

「花びら供養」石牟礼道子 平凡社

石牟礼道子の2000年以降の単行本未収録の文を渡辺京三氏が集めて一冊の本にしたものである。渡辺京三氏は「もうひとつのこの世」で石牟礼道子氏について書いた人である。

「花びら供養」という題名は、おそらく下記引用の文章より取られたものだろう。

生命世界には物語りがあるのだが、大きな物語りを語ろうとすれば、どれほどの闇の中にそれがあることか。人間にとって宗教とは、他の生命たちと同じ闇を抱えている生命世界であるとも思われる。無数の滅びがそこにはあって、生命はつながれてきた。
 水俣にいて考えるかぎり、古代世界のあらゆる神々も、日本古来の様々な宗教も、水俣の闇の中に陰を落としてはいるけれども、どこか逃げ腰で自己点検をしていないように思える。
 坂本きよ子さんという娘さんのお母さんから、次のようなことを頼まれた。
「きよ子はても足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、我が身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
 それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に、私がちょっと留守をしとりましたら、園側に転げ出て、地面に這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、
『おかしゃん、はなば』ちゅうて、花びらば指すとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
 何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば、きよ子のかわりに、拾うてやってはくださいませんでしょうか。花の供養に」
 このお母さんも、その連れ合いのお父さんも、きよ子さんのあとを追って、おなじ水俣病で亡くなられた。
               

例によって実家の行き帰りに電車の中で私はこの本を読んだ。生きるなんて、難儀なものだ、生まれてから死ぬまでの単なる暇つぶしなのに、人間って、なんてめんどくさいんだろう、などと、ともすれば厭世的になってしまう私の心の中に、透き通った冷たい水が注ぎ込まれたような気がした。いたいほどに冷たい、澄み切った水。

こんな句もある。

祈るべき天と思えど天の病む

極限の中で生きる人の苦しさと美しさと優しさを、石牟礼さんは静かに映し出す。うんざりして、嫌な気持ちになっていた自分が恥ずかしくなる一冊である。

(引用はすべて「花びら供養」石牟礼道子 より)

2017/11/19