もうひとつのこの世

もうひとつのこの世

2021年7月24日

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「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙渡辺京二 弦書房

「苦海浄土 わが水俣病」石牟礼道子 講談社

「逝きし世の面影」でファンになった渡辺京二さんの「もうひとつのこの世」を読んだ。これは、彼が編集者として関わった石牟礼道子さんを論ずる本だった。読み進むうちに、どうしても「苦海浄土」を読み返せねば、と思うに至った。確か家にあったはずだけど、どこだろう・・・と探したら、埃をかぶって、黄色くなってひっそりと本棚の片隅に「苦海浄土」が眠っていた。

「苦海浄土」は第一回大宅壮一ノンフィクション賞となりながら、受賞を辞退した作品である。渡辺京二氏は、この作品は、ノンフィクションではなく、石牟礼道子の私小説であると述べている。聞き書きではなく、ルポルタージュですらない、と。

「苦海浄土」を初めて読んだとき、私は登場する人物の語る言葉の豊かさ、美しさに胸打たれたものである。それはまるで詩のように心に染みこんできた。読み返し、それを思い出してから渡辺京二氏の文を読むと、なるほど、たしかにこれはノンフィクションではないかもしれない、と思えてくる。

 〈爺やん、爺やん、さあ起きなっせ、こげな道ばたにつっこけて。あんた病院行て診てもらわんば、つまらんようになるばい。百までも生きる命が八十までも保てんが。二十年も損するが。
 なんばいうか。水俣病のなんの、そげんした病気は先祖代々きいたこともなか。俺が体は、今どきの軍隊のごつ、ゴミもクズもと兵隊にとるときとちごうた頃に、えらばれていくさに行って、善行功賞もろうてきた体ぞ。医者どんのなんの見苦しゅうてかからるるか。〉
 といったふうに続けられる対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい。これは明らかに、彼女が自分の見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。〈中略)「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。
 この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。
           
              (「もうひとつのこの世」渡辺京二 より引用)

渡辺氏は『苦海浄土』が事実に基づかないでっち上げだと言っているのではない。彼は、長塚節の『土』を引き合いに出し、それを説明する。『土』は農作業のつらさと農民の貧しさを迫真的な描写で描いた作品である。農民は社会の一番しんどい働き場所を受け持って働きに働く哀れな存在である・・・と長塚節は描いている。だが、それは、農民生活の外面的な事実を学校出の知識人が捉えた像でしかない。実は農民には彼には伺うこともできない豊かな世界体験がある。だが、それへ目をとどかせる方法を彼は知らない。

一方、石牟礼道子はそれとは全く逆の描き方をする。彼女は農にまつわる様々な作業を喜びに満ちた生命活動として描く。人間が、農作業という形で土や作物の豊かな内実と関わっていく経験を描いている。その世界に互いに根を下ろすものとして、石牟礼氏は登場人物に成り代わって行くことができているのだ。

渡辺氏がいう「もうひとつのこの世」とは、あらゆる便利さや知識や近代的な文明に囲まれたこの世ではない別の世界だ。それら以前からあった、根源的な、生命との関わりあい・・・農作業であれ狩猟であれ、生きていくための営みそのものが根源的な豊かさにあふれている、もう一つ別の世界だ。深い文学的素養も学習もなしに、石牟礼氏は、そうした「もうひとつのこの世」に自身が根付いているからこそ、『苦海浄土』を独特の手法で描き出すことができた。ということを、私はこの本から受け取った。

知識や教養、近代的な文明が全てではない。むしろそこから離れた別の場所に豊かな世界は広がっている。渡辺京二氏の本を読むたびに、私はその事実に行き当たり、我が身の頭でっかちを顧みて、頭を垂れるばかりである。

2013/10/1