「ひとり暮らし」谷川俊太郎

「ひとり暮らし」谷川俊太郎

2021年7月24日

半年間準備した企画を、12月の始めに実現させて、何か夢を見ているような時間を過ごした。その企画においでくださったのが、谷川俊太郎さんだった。

お会いしたときは、話す言葉のひとつひとつの的確さ、確実さに胸打たれていたのだけれど、この本を読むと、詩人は、散文を書いても、詩人なのだなあ、としみじみ思う。読み始めて、ほんの数ページでもう、心をノックアウトされて、あとは、まるで噛み締めるように、言葉を味わいながら、じっくりと読みふけった。

憎めない悪人というのがいる、反対にどうにも好きになれない正義の人というのもいる。私たちは少なくとも建前の上では、善悪正不正を判断の基準としがちだけども、心というこのわけの分からないものは、ひとつやふたつの基準ではかれるものではないということもまた、私たちは誰に教わらずとも知っているらしい。抱く思想に関係なく私たちは狂信者におぞけをふるう。
心を動かすことの出来る空間、あるいは隙間、そこにはいったい何があるのだろう。せめぎあう感情や思考とからみあって、それらを生かす意識しがたい何かがある。それもまた感情や思考のひとつかもしれないが、それはともすれば固定されようとする感情や思考をほぐす働きをもつのではないだろうか。そしてなづけることのむずかしいそれを、私たちはゆとりという仮の名で呼んでいる。
ゆとりは私たちの住む地球に対して、宇宙の真空にも似ていようか、それはまた私たちの生きる一生のつかの間に対して、永遠とも言えようか。自分を、自分の心を突き放し、相対化して見ることのできる視点、心の外のもうひとつの心。ユーモアと呼ばれる心の動きもまたそこに根を下ろしているように思われる。
もしそれこそがほんとうのゆとりであるとすれば、そのゆとりは金や物の多少に関係がない、信心、不信心にも関係がない、思想のちがいにも、教育の高い低いにも関係がない。私たちが知らず知らずのうちに、ゆとりの有る無しで人を判断するとしたら、それは他の基準による判断よりもずっと深いものであり得る、その判断もまたゆとりあるものであってほしいけれども。

(「ひとり暮らし」谷川俊太郎 より引用)

抜き書きして手元に起きたいような文章があちこちに煌いて、贅沢な本だ。これもまた、詩集の隣においておきたいような。

2008/12/17