女子の人間関係

女子の人間関係

2021年7月24日

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「女子の人間関係」水島広子 サンクチュアリ出版

 

「女性特有の意地の悪さ」「女性ならではの陰湿さ」などの表現が、嫌いである。意地悪さも陰湿さも、女性の専売特許ではない。男性にも意地悪な奴はいくらでもいるし、男の陰湿さも結構なものだ。話題のドラマ「半沢直樹」を見れば、男性が如何にどろどろした人間関係の中で生きているか、わかるではないか。
 
部屋の中に男性だけ、女性だけ何人か集めてテーブルにお茶とお菓子を置いて座らせておくと、女性はいつの間にかお茶を勧め合い、おしゃべりを始める。男性はいつまでも黙ってスマホをいじっているばかりである。なんて実験をテレビで見たことがある。仲良く上手に助け合うのが女性だ、という言い方だってできそうなものなのに、なんで「女は嫉妬深くて陰険だ」なんて定型的に言われなければならないのだろう。
 
で、この本である。女性は意地悪で陰険「な傾向が」ある、と言う人が「だってこの本に、女性にはそういう傾向があると書いてあったから」と書いているのを目にしたので、読んでみた。そうしたら、この本には「女」と書いてある。カギカッコ付きの、「女」である。
 
序章にいわゆる「女」の嫌な部分が列挙してある。自分より恵まれた者に嫉妬する。裏表がある。男の前でかわいい、頼りない女を演じる。他の女性を差し置いて自分だけ好かれたがる。恋人ができると恋人優先になって友人に無礼に振る舞う。群れたがる。自分とは違う意見を持つ相手を尊敬せずに「否定された」とみなす。感情的に敵味方を決める。陰口や噂話が好き。関節で曖昧な表現をして察してもらえないと拗ねる。相手のことは自分が一番わかっている、と錯覚して意見の押しつけや決めつけをする。
 
そして、これらはすべての女性にある特徴ではないし、これらが殆ど見られない女性もいる、とした上で、これらのいわゆる「女」の嫌な部分を、本書ではカッコつきの「女」と書く、と最初に断りがいれられている。つまり、この本の中の「女」はある種特定の嫌な部分を持ち合わせた一部の女性を指している、ということである。
 
という前提をすべて受け入れてしまえば、以下、この本に書かれていることは、間違っていないし、かなり良いことを書いてあるとは思う。だが、なんで「女」なんだ?と思わずにはいられない。だって、嫉妬深かったり表裏があったり、自分だけ好かれようとしたり、彼女優先になったり、強いものと群れたり、自分と違う意見を持つ人を受け入れずに否定したり、感情的に敵味方を決めたり、察してもらえないとすねたり、意見を押し付けたりする男は、たくさんいるからね。そういう男に、大勢会ったからね。
 
女性が人間関係に悩んで「女性特有のいやらしさ」と言いたがるのは、逆に言うと、男性と対等の立場で真っ向から向き合って利害関係で衝突する経験が多くの女性には少ないからにすぎないんじゃないかと私は思う。女性だから大目に見てもらったり、女性だから大事にしてもらったり、女性だからめんどうなことは任せられなかった結果として、男性に「陰湿さ、いやらしさ」を感じるチャンスがなかっただけじゃなかろうか。
 
だって、その証拠に、家庭において遠慮の無くなった関係性であるところの「夫」に関して言えば、嫉妬深くて〈子どもばっかりかまって俺を大事にしないと怒る、とか)裏表があって〈人前では家庭を大事にしているふりをするとか)自分だけ好かれようとする(子どもを甘やかしていい顔をするとか、)意見を押し付ける(俺の言うことを聞けとか)、などなど、妻たちは不平不満タラタラではないか。どこか女性特有だ?
 
この本は、女性は、そうした「女性特有の」「女」を捨てて、他人を気にせず、裏表を持たず、自然体で、人に好かれることを目標とせず、自分のやりたいことをして、多様性を大事にし、陰口を叩かず、「私は」を主語にして話し、相手の領域を尊重せよ、と説く。それは、極めて正しいことだと私も思う。
 
ただ、それは「女」じゃないよ。強いて言うなら「人」ではないかい?と思わずにはいられない。ここでネガティブな側面だけを「女」と表記することに、私は、強く異議申し立てをしたい。これもまた、ミソジニーの一形態ではないか。問題は、そこから始まっているのではないかな。
 
 

2020/11/30