日本の反知性主義2

日本の反知性主義2

2021年7月24日

・・・と、ここまで、私は反知性主義に対して批判的な立場から書いてきた。だが、その一方で、ある種のためらいを感じている。この本の中で言うならば、小田嶋隆の「今日本で進行している階級的分断について」という論に、私は近しいものを感じるのだ。

話 は飛躍するが(私の中ではつながっているが)、大西巨人の「神聖喜劇」という長編小説がある。私は最初の数冊を読んだだけで、全巻を読み通してはいないの で、語る資格が無いのかもしれないが、お赦しいただきたい。この物語は、主人公が、理不尽な軍隊生活の中で、軍務規則やあらゆる法律を超人的な記憶力で覚 えきり、それを活用することで上官に抵抗する物語だ。不条理としかいいようのない、ただ部下をいじめ倒すだけの上官に対して法的知識が武器として極めて有 効に働いていく。私はこれを、簡単にいえば、知識によって知性が無教養に勝つという勧善懲悪的な物語として誤読した。知性は善であり、無教養は悪である。 当時、法学部の学生だった私は、法を武器に不条理と戦う主人公を、小さな子どもがウルトラマンを見るのと似たような思いで読んでしまっていたのだ。

だ が、当時の日本の農村部と都市部の経済格差は、今とは比べ物にならないほど大きなものだった。教育格差はさらに大きく、知識層は恵まれたごく一部の人たち でしかなかった。農村に住むものの多くは、僅かな教育を受けた後はどろどろになり、身を粉にする厳しい労働に駆りだされ、小作料の支払いに追われ、食糧難 に喘ぎ、女の子たちは身売りをするような状況すらあった。そんな中で生まれ育った、跡継ぎですらない二男、三男が軍隊生活に入ったのである。かれらはそこ で何を感じただろう。たとえ厳しい訓練があったとしても、気候に左右されずに食料は日々保証され、温かい寝場所もあり、風呂にも入れる。訓練を重ねれば、 二等兵から一等兵、上等兵と出世もでき、部下も持てる。都会で恵まれた生活を送ってきた「学のある」人間だって、軍隊規則の中ではどん百姓の自分よりも下 位におかれることすらある。それは、彼らにとってはある種、夢の様な平等社会だったかもしれない。(とはいえ、更に特権階級の人間は士官学校などに行って しまうのではあるが。)そこで、いけ好かない知識を振り回す町育ちの人間なんぞ、地位を振りかざして因縁をつけ、思い切り殴ってやりたくもなるものだった のかもしれない。

私は軍隊の不条理な新兵いじめのようなものが許されるなどと言っているのではない。ただ、軍隊内部 でそんなことが横行した背景には何があったかを想像しているのだ。そして、社会の中で最下層に置かれ、踏みにじられてきた人たちが、軍隊という場所で地位 を得たときに有頂天になって今までの鬱憤を晴らそうとしたことも、私の中の黒い部分は大いに理解できてしまうのだ。

多 くの学者や作家が戦争中の軍隊いじめの酷さを書き記した。私はそれを読んでは憤慨していた。けれど、いじめられた側には、文章としてそれを表現する能力の ある人たちがいた。いじめた側には、その思いを言葉にするだけの知力というものがあまり存在していなかったのではないか。彼らは学ぶ代わりに鍬を持ち、鋤 を使っていた。それを思うに、知力は正義であり、無教養は悪である、という学生時代の私の論理はあまりに稚拙である。もし、そうであるならば、知力を磨く 場所を最初から与えられなかった者は悪にしかなり得ない。ウルトラマンは怪獣をやっつけるが、怪獣には怪獣の事情というものがある。

歴 史は文字や資料で残されたものから読み取るしかない。だから、記録を残す知力を持った者たちから見た歴史だけが残される。いやしく無教養なものは取り残さ れがちである。そういう忘れ去られたものをすくい取ろうとしたのが、柳田国男や宮本常一だった。そこには、正史とは別の生き生きした歴史があったはずなの だ。

その3に続く

2015/6/15