しらふで生きる

2021年7月24日

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「しらふで生きる 大酒飲みの決断」町田康 幻冬舎

断酒系の本としては、過去に「上を向いてアルコール」を読んだ。あれは、依存症だった小田嶋隆が断酒して二十年経ったという話である。二十年も経てば信用してもいいかもね、と思ったものだ。

で、この本だが。町田康は自分が依存症だとは認めていない。平成27年の12月に断酒を決意したというから、まだ五年も経っていない。んー、今ひとつまだ信用ならん気がする。

町田康は頭でっかちの人だから、酒を何故辞めるか、についてありとあらゆる理屈を並べている。もう、哲学の域まで達している。ここまで追求し、宣言してしまったら、これで酒を飲むわけにはいかんだろうな、と思う。そうか。そうやって、自分を追い込んでいるのか。成功するといいねえ。

私が感心したのは「人間は「自分」のことをまともに判断ができない」という章である。

個人の尊厳は保たれるべきだが、それは大多数の人が「個人の尊厳は保たれるべきである」と考えて初めて成り立つ。大多数の人が「貧乏人なんて虫けらと同じだから目の前で死んでもなんとも思わない」と思っていたら尊厳は保たれない。ところがそこに「自分」が絡むとたちまち相場観が狂う。「一般論としては理解出来るが、自分のこととなると話は別」なのである。

というところから、元々何も持っていないものは、何も奪われることはない、という哲学の領域に入っていくのである。で、私はそんな哲学はどうでもよくって、とりあえず、そうだよなあ、自分のこととなると話は別だよなあ、としみじみ思ってしまったのである。

こどもが小さい頃、吾が子が泣いているとその声は耳に突き刺さり、胸に染み渡り、どうにもこの子を泣き止まさせてやらねば、心地よい思いで満たしてやらねば、と強迫観念的に思い、放置することが出来ず、かと言って子は簡単には泣き止まず、しまいには、なんでこんな目に合わねばならんのだ、と恨んだりすらしたものだが。この年になると、他人の子の泣き声のなんと可愛いことか。駄々をこねようが、わがままに泣き叫ぼうが、おお、元気だねえ、いつまでだって泣いておいで、なんて笑っちゃうのである。自分の子の場合は、話は全然別だったのであるが。

私は私であり、子や親や夫は別の人格であって、私が思い通りにできるのは自分自身でしかなく、責任を取れるのも自分自身でしかなく、であるから、自分の人生をまずはまっとうすることこそが私にできることなのである、と私は知っている。知っているのに、自分のこととなると話は別で、家族の行動、選択のあれこれに口出ししたくなったり、助けたくなったり、何も出来ないのにおろついたりするのである。まあ、それも当然っちゃ当然だが。弱いよなあ、そういうとこ、と反省する今日このごろなのである。

私自身は、お酒は大好きだが、ここ十年くらいでぐっと飲む量が減ったし、非常に自制している。依存症になりたくないし、数値的にもあまり良い影響がないからね。それは、町田さんみたいにこんなにたくさんの理屈を並べ立てなくても、とりあえず、元気で長生きしたいから、というだけで済んじゃう程度のことなんである。町田さんはもっと大変なんだろうなあ。つまり、私よりもずっとアルコールに依存していたんだろうなあ、と思うばかりである。

2020/7/2