死を想う われらもついには仏なり

死を想う われらもついには仏なり

2021年7月24日

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「新版 死を想う われらもついには仏なり」石牟礼道子 伊藤比呂美 平凡社

「苦海浄土」の石牟礼道子と「切腹考」以来の伊藤比呂美の対談である。石牟礼さんは今年お亡くなりになり、この本が新装された。死については腹が座りすぎたほどのお二人の対談であるから、それはもうすごいものだろうと思ったら、非常に穏やかで俗っぽいところもあって、お腹があったかくなるようなやり取りであった。

石牟礼さんは、この時点で死ぬのを怖くない、痛いのだけは嫌だけど、悲しみも名残もない、十分生きたと言ってらっしゃる。そして、自分は半端人間だと断定される。石牟礼道子さんが、である。聖女のような、強く美しく正しく誰もが慕う石牟礼さんが、自分が生きていることで周囲に迷惑をかけていると言われる。謙虚に見せようとしているわけでは断じてなく、そう思っているのである。そこに、私はじんと胸にしみわたるような驚きと感動を覚える。

人生なんて、誰かにすごいといわれたり、感心されたりしたところで何の役にも立たないんだよなあ、と思う。自分が自分を受け止めるとか、生きている時間を味わうとか、受け入れるとか。そういうことがなければ、どんなに周囲に認められてもあんまり意味はない。石牟礼さんは、自分とまっすぐに向き合って、いつも自分に尋ねていらしたのだろう。澄み切った凛とした姿勢に、ただただ頭が下がる。

死について思う毎日である。いろいろなものが手を離れ、今はただ、静かにその時を待つ身内を前に、思わずにはいられない日々である。傷ついたことも、傷つけたことも、もう、すべては終わって、何もかもが浄化されるのが死なのかもしれない。

2018/9/12